2021/5/17 9:35

海外では目張りを入れたヒール姿も!松田聖子より有名な日本人!惜敗も、高まるリスペクト!海外での永田裕志を探る!

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海外では目張りを入れたヒール姿も!松田聖子より有名な日本人!惜敗も、高まるリスペクト!海外での永田裕志を探る!
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5月13日、AEWでモクスリーに惜敗。


 2006年、菊タローが海外遠征に出た時だ。相手に腕固めを決め、こう叫んだ。「白目!白目!」。言わずもがな、永田裕志の白目パフォーマンスのことである。菊タローはマスクマンであり、別に、その目の色までが見えるわけではないし(2010年に『キラー菊』として白目仕様のマスクを被ったことはあるが)、そもそも海外の客に「白目」と言ったところで、意味が通じるものでは、まるでない。だが、そこはサービス精神旺盛な菊タロー。日本のマスコミも取材に来てる中での、茶目っ気だったのだろう。しかし、それから15年、まさか、「白目」が、アメリカのリングの実況中継で叫ばれることになるとは……。

 12日(日本時間13日)、アメリカはAEWの『AEW DYNAMITE』に永田裕志が参戦。ジョン・モクスリーの持つIWGP USヘビー級王座に挑戦した。ベルト奪還はならなかったものの、大熱戦。「シロメ!」と叫ぶ実況陣の盛り上がり宜しく、果てはナガタロックIIでモクスリーの歯を折る死闘。かつての付け人であり、AEWとはオポジション(対抗団体)であるWWEの主力の中邑も、その健闘を示すかのように、Twitterで呟いた。「ゼアッ!」

 そして、背景には永田の、海外および外国人選手間における、評価の高さがある。それも積年の。

 今回の当欄は、『海外での永田裕志』と題して、その道程を辿りたい。

「松田聖子よりも有名な日本人」に!


 1992年デビューの永田が、アメリカへと武者修行に旅立ったのは、1997年2月18日。修行予定期間は1年。実はこの前日に新日本プロレスで行われた記者会見では、永田は先ずアトランタのジム『パワープラント』に直行。そこで練習を続けながら、チャンスがあればリングにも上がる、という発表になっていた。しかし、既に天山、小島、中西が、海外修業はおろか、凱旋帰国を果たしており、永田の鼻息は荒かった。「アメリカでは何でもやります。試合に出たい。悪役だって、ペイントだってやる」自ら、第三世代の中では出遅れた感を認識していたのだ。

 実際、当時、栄華を誇った新日本の提携団体・WCWは、所属選手約180人でありながら、放送局『TNT(ターナー・ネットワーク・テレビジョン)』でのゴールデンタイム中継に出られるのは30人程度。激しい争いながら、もとより技量に富んだ永田。当時、新人だったゴールドバーグを『パワープラント』での練習で何度も極め、周囲もその実力を高く評価。8月25日には生中継がおこなわれたコロンビア大会で、クリス・ジェリコの持つWCWクルーザー級のベルトに挑戦。惜敗も、翌週はディーン・マレンコと、これまた生中継で一騎打ち。いわゆる日本スタイルもこなせる好敵手たち相手にこのままTVレギュラー入りかと思いきや、弱肉強食の世界。その後は画面から消えた。このままではマズイと感じた永田は、日本人の悪徳マネージャー、サニー・オノオと結託。ヒールとしての、いわばリスタートを図ると、これが大当たり。オノオの助太刀でジェリコに勝利したかと思えば、同じ日本人の筈のウルティモ・ドラゴンと抗争。「あのマスクをはいでやる!」と息巻いた。ヒールらしく、目張りを入れたことも(1回のみ)。それまでは足技のナガタロック(I)がフィニッシュだったが、WCWのリングでは、開発後も余り使ってなかったナガタロックIIを多用。こちらの方が、自分の表情も相手の表情も1フレームに入るため、極めてテレビ向きなのだった。

 気づけば永田は、TNTのWCW中継に毎週登場。街を歩けば話しかけられ、小切手は顔パスで換金出来た。「松田聖子より有名な日本人」と友人が評したのもこの頃。翌年の1月4日、お馴染み東京ドーム大会で凱旋。ところが、すぐアメリカに戻ってしまった。WCWが永田を手放したがらず、ワンマッチのみの凱旋になったのだ。今回のモクスリー戦にあたり、『Sports Illstrated』はネット配信記事にて、モクスリーが事前にこう言っていたことを報じている。『We both loved that it would be a chance for Nagata to be back on TNT』(永田が、TNTに戻って来てくれれば嬉しいと、私たちは思っていた。※拙訳。以下同)。AEWをテレビ放送しているのも、往時のWCWと同じ、TNTのチャンネルだったのだ。

 結局、1年の予定の修行期間は1年半に延び、1998年8月8日の大阪ドーム大会で、永田は本格凱旋を果たした。

 それから先は読者も知る方が多いことだろう。2002年から2003年まで、IWGPヘビー級王座を連続10度防衛。3代目にモデルチェンジした同ベルトとともに、橋本真也に続く、『ミスターIWGP』と呼ばれた。2002年10月、その5度目の防衛戦で、当時の最高責任者、蝶野正洋を相手にする際は、こんな要求も。「もし勝ったら、『海外スカウト部長』の座が欲しい」(10月23日。26日の同一戦は60分時間切れ引き分け)。もちろん、WCWで培った人脈もあっただろう。だが、永田の視野には、この翌月会う男の存在も入っていた。アトランタ五輪、アマレス金メダリストにしてWWE(当時WWF)王者、カート・アングルである。

確かな永田の慧眼


 先のゴールドバーグを極めた話ではないが、やはり技量的には洋の東西を問わず、随一のものを持つ永田。ロス道場で修行していたカール・アンダーソンを見出したのも彼。とはいえ、こちらはそもそものアンダーソンの友人であるプリンス・デヴィットが、「新日本の永田さんに、自分の練習のビデオを送ったら?」と進言。アンダーソンは奥ゆかしく、「まだそんなレベルじゃない」と、言い換えれば尻込みしていたが、デヴィットの熱意に負け、送付。永田はそれを視認し、来日を1発で快諾。その後のアンダーソンの活躍は言うまでもないだろう。

 その永田が、尊敬の念で観ていたのがカート・アングル。自ら主宰のアマレス大会をたびたびおこなっており、いわば、「プロとしてトップに立ち、その恩恵を、自分が育ったアマレス界に還元している」と映ったのだった。蝶野との防衛線の翌月には、弟のアマレスラー、克彦が大会に招待される形で、そのカート・アングルとの初邂逅が実現。この時、同じく、アマレスの猛者で、既にプロレス入りしていた、ブロック・レスナーとも出会っており、いわゆる“永田コネクション”はますます拡充。ただ、この時のレスナーについて永田は、こんな発言をしている。「レスナーと目が合った瞬間、、お互い目をそらしっちゃって…。(中略)バチバチってのがあったんで」(『週刊ゴング』2002年11月28日号)。記者の要望で、レスラーにヘッドロックをかけられる永田の写真が撮られているが、永田の目が一切笑っていない。

 実際、レスナーは2005年10月、新日本プロレスに初参戦。いきなりIWGPヘビー級王座を奪取。永田もこの翌々月には一騎打ちで惜敗。翌年の1月4日には中邑もタイトル奪回に失敗。「誰がレスナーからIWGPベルトを奪い返すのか?」が、2006年のテーマになっていた。そして、2006年7月には、棚橋弘至の挑戦が決定。棚橋は、決戦まで、各地のファンにその思いをフラッグに書き込んでもらい、それを背に入場することを誓っていた。だが、決戦直前、衝撃の情報が入る。「レスナー、IWGP戦をドタキャン。ベルトを持ち逃げ」。持ち逃げされたベルトは、永田が連続10度の防衛を果たした、3代目のそれであった。

数奇な3代目IWGPベルトの行方


 以前の当欄にも書いたが、当時の社長、サイモン・ケリー猪木へのインタビューによれば、この時のレスナーのドタキャン劇には、契約上の不合理があった。契約したのは2005年の秋で、相手はもちろん新日本プロレス。ところが、同年11月14日に新日本プロレスがユークスの子会社に。親会社が代わり、予定の契約金額を履行出来なくなり、レスナーもヘソを曲げたのだった。当日は新王者決定トーナメントで行われ、これを制した棚橋が、初めて、「(新日本を)愛してます」の言葉をマイクで披露したのは有名だ。

 結局、レスナーは2006年7月29日、3代目のIWGPベルトを持ち、アントニオ猪木率いるIGFの旗揚げ戦に。だが、そのメインで敗れ、ベルトを相手に明け渡す形となった。勝ったのは、カート・アングルだった。

 巡り巡って、2008年1月4日、新日本プロレスの東京ドーム大会で、ついにそのアングルと永田が一騎打ち。永田はかつての棚橋さながら、ファンのメッセージが入ったフラッグを背に入場。正式ではないが、言うなれば3代目IWGPベルトのタイトルマッチとなった同一戦は、この年のプロレス大賞ベストバウトにノミネートされる名勝負に。だが、永田は惜敗。ただ、翌月、それこそ元付け人の中邑がアングルに勝利。当時の現行のIWGPベルトと併せ、3代目のベルトも獲り返した。なお、永田に勝利した際、アングルはこんなコメントを残している。「中邑、棚橋よりも、永田の方が高いレスリングテクニックを持っていたと思う。ハートも強かった。永田がこんなに素晴らしい選手だとは思わなかった」

 永田自身、このアングルとの一戦を、「アマレスの時から彼を意識し続けてきて、プロで戦えた。思い出の一戦」と、自身のベストバウトに挙げている。

衰え知らぬ、青義の使徒!


 あれから13年。アングルは昨年、コロナ禍による人員削減で、WWEより解雇。レスナーも同年9月、WWEとの契約満了が報道により伝えられた。

 まだまだ闘い続ける永田。前出の『Sports Illstrated』は、モクスリーが永田戦を決意した理由について、こう綴られている。『as I was watching him, I thought to myself, ‘F---, Nagata can still go.’ ”』(永田の(新日本での)戦いを観てて思ったんだ。「なんだよ、まだ現役バリバリじゃないか」)

 モクスリーの希望もあり、実現した一戦。勝利したモクスリーが見せた行動があった。それは、ひざまずいての、永田へのお辞儀であった。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

コメント

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  • 永田選手の戴冠期間時は
    2代目だったかと思います

    ID:19841728 [通報]
    (2021/5/18 12:17)
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  • 暗黒期にめちゃくちゃな扱いをされても腐らずにコツコツ積み上げてきたものが今評価されてるのはグッとくるなあ

    ID:23811808 [通報]
    (2021/6/2 3:36)
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