2021/4/26 9:30

猪木の命救った東スポ!プロレス大賞の賞金金額って!?『プロレスと東京スポーツ』特集!

閲覧数:510

猪木の命救った東スポ!プロレス大賞の賞金金額って!?『プロレスと東京スポーツ』特集!
5.0

『週刊文春』にて、大量リストラ報道。


 2010年も秋のことだ。アントニオ猪木の囲み取材があった。ひとしきり話し終え、「では、これで……」と猪木が取材スペースを退出する。記者も解散する。ところがである。1人の記者だけ、その猪木の後をついて行くではないか。そして、猪木に何か色々聞いている。取材は終わったはずなのに。いわば、他の記者を出し抜いているわけだ。だが、専門誌記者も、朝刊スポーツ紙記者も、それを咎めなかった。よくある光景だったからである。その記者は、東京スポーツ(※以下、場合により“東スポ”と表記)の方だったのだ。

 こんなこともあった。新宿区に事務所があった某団体の記者会見会場に、開始より1時間早く着いてしまったことがあった。筆者が開始時間を間違えたのだが、その時、事務所のガラス越しに見たのは、選手と、東スポの記者が、身振り、手ぶりの動きも交え、話し込む姿。いざ、記者会見が始まると(勿論、先の東スポの記者も取材側に着席)、その選手は途中で乱入宜しく登場。東スポ記者のアドバイスを活かしたパフォーマンスを展開していた(※スキット重視の団体だった)。こと、プロレスにおいては、東スポは特殊かつ重要な位置にあることを知った。それは、治外法権を思わせる、プロレスとの昵懇を感じさせる強さだった。

『週刊文春』4月22日号に、ショックな記事が躍った。『東スポが社員百人リストラ』(※表記は同誌面ママ)の見出しとともに、同社社員約350人のうち約100人近くの希望退職者を募る意向であること、加えて、「会社側から『あと2~3年で潰れる』と告げられました」という、同紙記者の言葉も紹介。いわば、その経営危機が報じられたのだ。

 東スポと言えば、夕刊スポーツ紙の雄。実は、他に出ている夕刊スポーツ紙全ての発行部数を足しても、東スポには及ばないとされるほどのトップリーダーであり、こちらの情報も、別に前世紀のものではなく、筆者が同紙について取材した時の2000年代後半のもの。だが、ここに来て、斜陽の時を迎えたというのだろうか?同記事には確かに、「デジタルシフトが遅れたのが決定的な経営ミス」と、紙媒体の危難を語る常套句宜しく、書かれているが……。

 東スポと言えば、何よりプロレスファン御用達新聞。今回の当欄は、プロレスと東京スポーツと題し、その内実を探りたい。

より個性的に、よりハードにが東スポイズム!
 東京スポーツの入社試験を受けたことがあった。時期はバブル崩壊後、長く続いた就職氷河期とさせて頂く。いわゆる新卒扱いでのチャレンジで、プロレス好きな筆者としては当然、東京スポーツが希望就職先にあったのである。ところが、この東スポの入社試験、何から何まで異例だった。

 先ず、入社希望願書の受付締切が、(少なくとも当時かつ、筆者を例にとると)大学4年時の10月中旬。妙だった。通常の会社ならば10月1日に内定式がおこなわれ、翌年4月1日に正式入社となるわけで、つまり、ほとんどの就職希望学生が、この時期には進路を決めているのである。つまり、入社試験が遅いのだった。逆に言えば、「他の会社に受かっていても、受かってなくても、いずれにせよ、ウチに入るチャンスはありますよ」と言ってくれているようにも思える。既に某社の内定をギリギリで受けていた筆者も、こちらを前向きにとらえ、チャレンジ。ところが、更に妙なことに気づいた。例年の実績で、入社予定人数が、20数人となっていたのだ。これは、マスコミ、それも当時の就職氷河期からすれば異例も異例。有名出版社で、(あくまで予定だが)3~4人、新聞社でも、2ケタ行くか行かないかの新卒採用人員だった。その小さな枠を数百から数千人で争うのだからまさにこちらの意味でも就職氷河期であるわけだが、東スポだけが、非常に採用数が多かったのである。それも、繰り返すが、通常の就職活動のスキームを外れてである。さらに驚いたのが、これは余談だが、某大手スポーツ紙(S紙)が何階かに渡って占めるビルの上階の1フロアが、東スポ本社だったことなのだが(※後に、印刷ラインもこちらの物を使わせてもらっていると聞いた。現時点は不明)。

 こういった仕事を続けていれば、筆者にも東スポ記者の知り合いは増えるわけで(なお、筆者自身の入社試験は第二次面接で玉砕したが)、そんな交流の中で結局、合点は行った。そう、東スポは、通常の就職ラインに乗るような既成感ある人材を求めてはおらず、加えて、非常にハードな職場でもあったのだ。前者で言えば、AV嬢が面接に来たという伝説があるほどだが、後者で言えば、ある意味、大量に採用した新弟子が翌日になると姿を消しているという新日本プロレス道場さながら。その中で、独自の東スポイズムが磨かれて行ったのである。

“東スポ出身”は、実力保証付き。


 知己の記者が、入社して先ず言われたのは、「誰よりも早く取材場所に行き、誰よりも遅く帰れ」東スポは夕刊紙だから、朝刊スポーツ紙に載ることを書いてもしょうがない。それをふまえた上で、独自の視点が求められるのだ。既にこの時点で根性かつ、個性が鍛えられるわけである。個人的には、あのおどろおどろしい見出しにも通じる記事の書き方で聞いた、「起承転結じゃダメだ!東スポは、転結承起で書け!」という考え方が非常に好きなのだが。

 付言すれば、筆者が同社のフロアに遊びに行くと、いつもほぼ、もぬけの空。プラス、書類などで雑然としていない、非常に綺麗な職場でもあったことにも驚いた。ほとんどの記者が出はらい、自分の足でネタを稼いで来るのだった。当然、若いうちから任せられる仕事の裁量も大きい。そして、これはマスコミ陣なら認知してる方も多いだろうが、こういった環境ゆえ、同社には非常に有能な人材が多い。文脈になぞらえれば、通常の記者の倍以上の仕事をこなすわけで、他社のお偉いさんに出自を聞くと、「実は昔、東スポにいたんです」と言う方の多いこと!他社の記者が、「(東スポは)一種の新人養成機関だね」と笑っていたが、つまるところ、一種のエリート集団なのでもあった。先の『週刊文春』によれば、記者の待遇につき、「90年代中頃は、入社2年目の年収が1200万円」とあったが、多少、色はあるとは思うのだが、確かに、高額な給与は貰っていても、おかしくない働きぶりでもあった。

 そして、その個性が、最も活かされる取材対象が、プロレスだったと言えよう。

「ケネディ暗殺時の一面は、ブラッシー血だるま」はウソ!


 東スポの、伝説的一面というものがある。『フセイン 米軍にインキン大作戦』(1990年11月23日付)、『ブルック・シールズ サウジで肉体出前』(1991年1月25日付)等々。要するに、前者は、夏まで戦争が伸びれば兵士も下半身が蒸れるということ、後者はサウジアラビアに女優ブルック・シールズが慰問に行ったというだけだが、この大言壮語。清濁併せのむことも可能な懐深きジャンルでもあるプロレスにおいては、こちらがバッチリとはまっていたのも確かだ。

「小橋、あわや乳首切断」(2004年6月2日付)は、市場で、タラバガニのハサミに乳首を挟まれたのでまだ良いとしても、『広瀬すず プロレス参戦』(2017年1月28日付)は、よく見ると最後に『か』がついていたし、内容は、広瀬すずがプロレス好きをテレビで発言しただけ。『天龍 首吹っ飛ぶ 北尾 丸坊主』(1991年8月11日付)に至っては、天龍が北尾についてなんらかの責任をとらされたのかと思えば、天龍が前日にラリアットで負け、北尾は新天地の格闘技修行で坊主となったという、つまりは別個の記事の合体であった。そういえば、先日、拙著『笑えるプロレス』を上梓させて頂いたことに触れたが、その候補ネタにこんなものがあった。『藤波、奇襲を予告』。なんでも、天龍との一騎打ち前に、こういった東スポ一面があったと聞き、(これは面白いなあ)と思い、早速、裏付け作業に入ったのだが……いくら探しても、この一面が見つからなかった(涙)。要するに、都市伝説だったのだ。そういえば、ケネディ大統領が暗殺された際の東スポの一面は、『ブラッシー血だるま』だったとよく聞くが(実は高名なお笑いプロデューサーが、この内容をコラムに書いたことがあったのだ)、精査すると、これも違っていた。尾ひれがつくところも東スポならではだが、ではそのケネディ暗殺の時の一面見出しは何だったかと言えば、『力道不覚!!新兵器も不発』(1963年11月24日付)ブラッシー血だるまよりも、更にマニアック!! 力道山がキラー・オースチン相手に、フライングヘッドシザースからキーロックを仕掛けるも、効果は今いちという記事だった(1963年11月24日付、力道山、吉村道明vsキラー・オースチン、イリオ・デ・パオロ。因みにこの翌日の1面は、『魔王、あす未明来襲!』というザ・デストロイヤーの来日予告情報)。

 そう、いまさらだが、プロレスを重要視し、プロレスを盛り上げたのも、何より東スポの功績だった。

プロレスと東スポは二人三脚。


 あの『ゴング』誌の創始者、竹内浩介氏も、幼少期、プロレスを載せる新聞の存在を知り、その夜は嬉しくて眠れなかったという。ネットなどない時代。しかし、これで、試合の結果が翌日には知れる。私事で恐縮だが、筆者も前日夜、大試合があると、午後、ドキドキしながら近所のキヨスクまで自転車を走らせたものである。加えて、充実した紙面の数々。試合の分数ごとに細かく出た技を記した表が載ることもあれば、試合前と、試合後の、選手の目つきのみを載せる連載も。90年代には、その日のレスラーの発言を一つ選び、大書したミニコーナーも。

 そして冒頭宜しく、プロレスと協力体制を築き、盛り上げて来たのが東スポだった。2度に渡るオールスター戦主催(1979年、2011年)、ストロング小林が国際プロレスを辞め、猪木戦に臨む時には、一度的に身元引受人の立場に。同紙の編集局長、桜井康雄氏にインタビューした際は、力道山の13回忌興行の同日に猪木が新日本プロレスの興行があり、出られなくなった際、力道山興行側が激怒。なんとも危ない勢力の起用があり、東スポが間に立って、その矛先を収めたという話もしてくれた。近年、と言ってももう26年前だが、因縁浅からぬ新日本プロレスとUWFインターナショナルが同日同時刻に会談をおこなった際、「インター側と、電話で繋がってますが、喋りますか?」と長州に電話を渡したのも東スポの記者だった。『プロレス大賞』については、言うに及ばないだろう。因みに、同賞のある部門を受賞した選手と直後に酒席をともにしたことがあるのだが、その金額は10万円だった。

 編集体制にもそれが現れている。おおまかに言って運動部と文化部に分かれるが、運動部は、主に3班に分かれ、昔の呼び方をそのまま踏襲すれば、第一運動部が野球を扱い、第二運動部がプロレスを扱っているのだ(第三運動部がその他の、サッカーや相撲など)。記者比率は2000年代後半で、5:3:2ほどと聞いたが、当たり前だが、こんなスポーツ紙は他にない。そもそも、東スポのオーナーは、日本プロレス協会の会長であった児玉誉士夫氏であり、社長はその側近であった太刀川恒夫氏(現在は会長)。もともと深き関係だったのだ。1960年より発進し、1995年、創立35周年記念として同社より出されたプロレス事典『プロレス全書』には、出だしに以下の一文がある。

『“鴉(カラス)の鳴かない日はあっても東京スポーツの紙面からプロレスの消える日は1日たりともなかった”のである』

積み重ねて来た実績の重みに、今一度脚光を。


 1990年代、年にボーナスが4度も出たという東スポ。ただ、紙媒体の宿命か、モバイル機器の躍進で、特に会社帰りに電車の中で東スポを読む人々が減少。この事態に「クオリティペーパーを目指す」旨を社の方針として明らかにし、2000年代に入るにつれ、体制も徐々に変わる中で、このクオリティペーパー志向は、更に強くなって来た感がある。月並みな表現で恐縮だが、東スポの特徴である、いかがわしさや、ファンタジーの香りが消えたのである。それは、そういったおふざけを許さない当世の風潮もあるかもだが、前出の桜井康雄氏に、こんな言葉がある。

「世の中を洒落のめして生きる江戸っ子の風流(中略)。最近は江戸の風流もすたれてきましたから、東スポが十返舎一九や井原西鶴を継承していかないと」(『サンデー毎日』1991年9月1日号)

 コロナ禍で、さらに言いにくいことは言えぬ世の中になった感もあるが、幸い、東スポのデジタル部門の近年の業績は良い。何より、積み重ねて来たプロレス記事の情報量と価値は、専門誌を凌駕して余りある。こちらを無駄にして欲しくないし、有効活用の手もあると信じる。プロレスとともに歩み、協力と愛を惜しまなかった同紙の存続を信じ、エールを送りたい。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

コメント

    まだコメントはありません。

おすすめ記事

新しいコメントを投稿する

 [PCから画像ファイルをアップロード]

関連付けられたタグ

なし
[タグを付ける]

<< 一覧に戻る