2021/1/11 10:55

初めて借りた、刺激的プロレスビデオ!内藤には積年の恨みが?次期挑戦者に棚橋!躍動するNEVER王者・鷹木信悟特集!

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初めて借りた、刺激的プロレスビデオ!内藤には積年の恨みが?次期挑戦者に棚橋!躍動するNEVER王者・鷹木信悟特集!
5.0

NEVER王者として上昇の一途!


 辻よしなり氏と言えば、90年代の『ワールドプロレスリング』のメイン実況アナとしてお馴染みだが、その評価には、功罪相半ばするものが、少なくとも就任当時はあったように思う(※メイン実況就任は1988年)。曰く、「ふざけすぎる」「古舘伊知郎を意識し過ぎている」etc。クラッシャー・バンバン・ビガロのことを『歩く漬物石』と表現していたのは流石に筆者も閉口したが(とはいえ、それこそ先達の古舘伊知郎も、容姿の似たキングコング・バンディを『戦うヒヨコのお菓子』と言っていたが)、それから徐々に、同氏はユーモアを抑え気味に、自身の実況スタイルを確立して行く。しかし、もちろん、本人のお気に入りでもあったのか、長く使い続けたフレーズもあった。『ど演歌ファイター・越中詩郎』などは傑作の一つだろう(それゆえ、これも古舘作だと勘違いされる向きもあるが)。親交があり、自分との共著がある長州に関しても、こんなフレーズがある。『強引にMY WAY』。言うまでもなく、GOING MY WAYをもじったものだが、評価はさておき、筆者自身、すっかり忘れていたこのフレーズを、ある時、急に思い出すことになった。あるレスラーが、ほぼ同じフレーズを、講演会のタイトルに使ったのだ。2015年1月、山梨県立市川高校の創立100周年を記念したそのタイトルは、『強引なMy Way』。壇上では、今、最も光り輝く選手が、同校1、2年生を中心とした約360人を前に、こう訴えていた。「勉強、部活、恋。結果を恐れずがむしゃらにやってほしい。やってみないと分からない」講演者は、鷹木信悟であった。

 鷹木信悟の勢いが止まらない。2018年10月に主戦場を新日本プロレスに移すと、翌年1月にはIWGPジュニアタッグ王座を獲得。2020年1月にはNEVER無差別級6人タッグ王座、同年2月には同無差別級(シングル)王座を獲得。本年1月5日の東京ドーム大会ではジェフ・コブを退け、同王座防衛に成功。翌6日には次期挑戦者として、なんと棚橋弘至が浮上した。昨年の地上波『ワールドプロレスリング』でも、鷹木の試合は放映される率が高く、そこに来て、1月4日にはオーカーンを下して浮上のきっかけを掴んでいる棚橋の挑戦だけに、同王座の価値を含む、鷹木の躍進から目が離せない。まさに鷹木自身曰く、(棚橋へ)「怖くないならNEVERの激烈な戦いに入ってみろ!」と言ったところだろう。

 今回の当欄は、そんな鷹木の、まさに『強引なMy Way』たる人生を振り返ってみたい。

生家は、日本一の立地?!


 1982年、山梨県中央市生まれ。兄、姉と来ての、3人兄弟の末っ子。だが、いわゆる甘えとは無縁。要因は生家の位置関係にもあったかも知れない。本人曰く、「家の玄関を出ると、目の前に富士山が見えた。だからいつも、『富士山のような、偉大な男になりたい』と思ってました。小学校時は、皆さんの同級にも1人はいたのではないだろうか?「真冬でも、半袖、半ズボンで過ごしてました。そうしないと、負けだと思ってた」(鷹木)。ジャッキー・チェンの映画に魅せられ、闘いに興味を持ち、空手、合気道を嗜むどころか、自身が小学校高学年の90年代前半は、“若貴”に代表される大相撲ブーム。教室の後ろで大相撲トーナメントをおこない、大抵優勝していたという。「自分でトーナメント表、作ってましたので(笑)」(鷹木)。

 プロレスとの出会いは中学1年の時。初めて借りたプロレスビデオが大仁田vs天龍の電流爆破マッチだったというから凄い。「衝撃を受けました。でも、その時には、もう、大仁田さんは引退を決めてたんですが(※1994年5月の天龍戦に負け、大仁田は2度目の引退を決意)」と、鷹木は笑う。なぜって、それから十数年後の2014年、鷹木は大仁田と闘うことになるからだ。舞台は地元の、アイメッセ山梨。それは鷹木の地元凱旋興行であった。

凱旋興行で、名だたる大物たちと対戦!


 大会名は武田信玄のお膝元らしく、『風林火山』。2004年、DRAGONGATEにてプロデビューした鷹木は、2012年、ようやく地元・山梨で試合。意外にもデビューから既に8年が過ぎており、自分が試合した都道府県で47番目という遅きに辿りついたのが山梨だった。しかし、翌年からは5月をめどに凱旋興行『風林火山』を開催。1回目の2013年には曙を持ち上げようとする姿に歓声が沸き、2回目はまさに大仁田と激突。情熱を感じ取ったのか、大仁田から試合後、「電流爆破のリングに入る勇気、あるか?」と言われ、実際、同リングに身を投じたばかりか、大仁田の7度目の引退試合のタッグパートナーも務めた。2015年の『風林火山 其ノ四』では同じラリアットを主武器とする小島聡と対戦。2017年の『『風林火山 其ノ六』では、遂に同じ山梨出身のレジェンド・レスラー、武藤と対戦。大賑わいの会場の雰囲気に手応えを感じたのか、武藤は試合後、マイクでこう言った。「あの人も出たがっていたよ。グレート・ムタが」。実はこの『風林火山』。鷹木に故郷に錦を飾ってもらおうと、『鷹木信悟山梨同級会』が興行を全面支援。まさにその組織名通り、鷹木の高校時代の同級生たちが力を結集し、毎回の成功に尽力。同会の会長を務める塩島孟幸さんは、当時の柔道部の副主将。主将が、鷹木だった。

 同柔道部は、まさに鷹木が主将だった時、関東大会出場を果たした。それは、実に、22年ぶりのことだった。

『トンボ柄』を好む理由。


 中学2年の時、担任に呼び出され、怒られた。「ここは、そういうことを、書く欄じゃない!」という担任の手には、鷹木の記入した『進路希望調査書』が。他のクラスメイトが、進学校の名を連ねる中、鷹木だけが、違うことを書いていた。

『新日本プロレス』『全日本プロレス』『FMW』……。

「男である限り強くありたい。男だったらプロレスラー」という鷹木の気持ち。親の説得もあり、高校に進学し柔道を嗜み、頃合いを見て、父にやはりプロレスラーになりたい旨を語った。父の答えは、意外にも理路整然としていた。

「柔道でインターハイにも行けないのに、プロの世界は、そんなに甘いもんじゃないぞ」

 前出の半袖、半ズボンの逸話ではないが、筋金入りの負けず嫌いだった鷹木。勉強は不得手で、小学校時、毎週行われていた漢字テストでは、10問しかないにもかかわらず。赤点レベルを連発。遂に教師が鷹木をなじった。すると、翌週から、鷹木は満点を連発。遂にはクラスで1位の成績となった。「頑張れば、本気でやれば、何でも道は開ける」との信条を、体得した瞬間だったかも知れない。インターハイ出場こそならなかったが、主将として率いた柔道部が久方ぶりの関東大会出場を果たしたのは先述の通りである。高校卒業後、アニマル浜口ジムに入門。同時期に内藤哲也も鍛錬しており、「彼も負けず嫌いでね。ジムでスパーリングやった時、内藤にやられた足首が、今でもたまに痛むんですよ」と笑う。浜口の勧めで、3ヵ月の準備期間しかないままボディビル大会に出場。流石に優勝出来なかったが、本当に文字通り、その悔しさをバネに翌年優勝したのは語り草になっている。

 時間がある時には、地元・甲府市の武田神社や甲州市の恵林寺に通うという。「いつ命を落としてもしょうがない、危険と背中合わせなのがリングという場所。腹はくくっている。信玄公に祈り、良いことがあれば御利益だと思うようにしている」。そう話す鷹木が携帯する財布や名刺入れ、スマホカバーなどはトンボ柄。甲州印伝の小物で、「勝ち虫」として、戦国武将に好まれたデザインだ。理由は、決して後ろ向きに飛ばず、前にしか進まないから。自身の座右の銘と言っていい造語、『我道驀進』(※我が道を勢いよく駆け上がるという意味)とも通底しよう。

「やらない後悔より、やる後悔をしようと、挑戦を繰り返してきた」という鷹木。だが、いみじくも次期NEVER挑戦者が濃厚な棚橋は1月6日、こう語っている。「NEVER! 決して疲れない。決して諦めない、落ち込まないという意味では、日頃からNEVERを実行しているのは俺なんでね」

 鷹木のプロレスラーの定義は、「アスリートの心技体を持ち、人間としての生きざまを表現する者」。ノンストップの闘い様を刻んで来たNEVER王者に、何度も死地から復活し、新日本すら蘇生させたエースの度量がどう響くか注目したい。先行きの見えぬ世情を、生き抜ける闘志を可視化出来るだろう2人の邂逅に、大いに注目したい。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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