2017/10/21 10:41
えっ?NOAHの会長も大ファン?中西の、意外な最初の職業とは?デビュー25周年で一騎打ち!永田&中西特集!
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「永田裕志デビュー25周年記念大会」、千葉・東金アリーナ大会で一騎打ち!
2年前、現在NOAHの会長を務める内田雅之さんにインタビューした際、こんな質問をした。「特に支持してる選手とかいらっしゃいますか?」当時、NOAHとは何の関わりも無かった同氏はこう言った。「いるよ。新日本の第三世代。永田、中西、天山……」聞くと、1990年代前半より武藤の仲の良かった内田氏と、よく同席し、ご相伴に預かっていたのが、当時、若手だった彼らだったという。
そのうちの2人が今週末の21日(土)、メインで一騎打ちを行う。永田裕志と中西学だ。試合の冠は、「永田裕志・中西学デビュー25周年記念試合」。先週の秋山と大森に引き続き、こちらも25周年を迎える、新日本を支え続けた2人の闘いの歴史を、今回は特集したい。
新日本の嘱託社員時代は、石沢常光の隣の机だった中西。
永田は1992年5月に新日本入り。24歳での入門だったため、“年下の先輩”である大谷晋二郎や西村修が、「申し訳なさそうに色々注意してくれたのを覚えてます(笑)」(永田)。9月には若手時代の天山(山本)を相手にプロデビュー。入門4か月での、超スピードデビューだった。だが、それを上回ったのが中西学。知られざる、和歌山県庁の職員から、新日本プロレスのアマレスラー支援部門「闘魂クラブ」所属として、嘱託での新日本プロレス勤務を経て、同年8月に正式入門。そして2ヶ月後の10月13日にはデビュー。しかもカードはタッグリーグの公式戦初戦の、「藤波&中西vsスコット・ノートン&スーパー・ストロング・マシン」。つまり、シリーズ全体出場を義務付けられた、後戻り出来ない、藤波の正パートナーとしての初陣だった。背景は瓢箪から駒。藤波のパートナーとして予定されていたビッグバン・ベイダーのドタキャンによる代打出場だった。しかし、同時に、多大な期待をされていたことも否めない。以下は、新日本に正式入門する前、当時25歳だった中西が母校の私立宇治高校を訪れたという、朝日新聞大阪地方版1992年7月4日付の記事である。
「この日は、全校生徒約1500人が運動場に集まり(中略)、生徒会役員の女生徒がメダル獲得の願いを込めて金色のメダルを記念品として贈った」
そう、中西は、この年の夏に行われたバルセロナ五輪のアマレス代表だった。すなわち、プロレス界における金の卵だったのだ。加えて、まさに先週の当コラムでも触れた影響があった。同じくアマレス・エリートの秋山準が、9月17日に全日本でプロデビューしていたのだ。中西の急遽のデビューの裏には、新日本の強烈な対抗意識があった。
結果、中西はデビュー戦でノートンをジャーマンスープレックスで投げるなど大健闘。リーグ戦中は、コーナーからの藤波のアドバイスに足を止め、「ハッ!勉強させて頂きます!」と一礼する迷場面もあったが、なんとか闘い抜いた。永田はこの中西にデビューから連敗。3連敗目には、こんなコメントを残している。「五輪出場で特別待遇を受ける中西には、ジェラシーを感じる」……(1993年10月19日)。当時から中西のフェイバリット・ホールドはジャーマンスープレックス。ロープに振ってその反動で決める、「大☆中西ジャーマン」をご存じの読者も多いだろう。それに対して、永田が早くからバックドロップホールドを使うようになって行ったのも、意味深長だった。
IWGP戦までの戦績は、中西の16勝6敗1分も、1995年からは5勝5敗2分。
1999年、中西は第三世代としては初めてG1を制覇。決勝の相手だった武藤が、「久々に専門誌の表紙になってるね」と友人に言われて見てみれば、全て中西にアルゼンチンバックブリーカーで担ぎ上げられている写真だったというのは語り草だ。だが、大ブレイクには至らない。中西自身の、こんな述懐がある。「自分は15歳からアマレスを始めて、最初の5年は下積みみたいなもん。プロレスは最初のデビューがああだったから、おごってしまった部分があった……」。
対して、漸進的なブレイクを果たしたのは永田だ。1997年のアメリカ遠征で、他団体に対して時に高圧的な新日本スタイルだけでなく「相手の実力を認めながら、自分の実力も認めさせるスタイル」を学んだのが極めて大きかったという。1990年代後半よりタッグを組んでいた2人。最初は中西が後にコールされていた。だが、2001年の永田のG1初制覇を機に、その順序は逆になった。2002年はIWGP王座を奪取した永田。同時に、空回りする中西への“口撃”も多くなっていった。「今のアイツは、転がれば転がるほど振り出しに戻るスゴロク」「知能が小学生以下」etc……。そんな2人が、IWGP王座をかけての唯一の激突をしたのは、2003年の3月のことだった。
伏線はあった。前年のG1の公式戦にて、永田が中西に惜敗。前日まで、「中西はもう死火山。歌を忘れたカナリアだ」としたが、試合後には、「強い中西が復活して、ちょっと嬉しいかな」。そして、同年10月にIWGP王座を防衛すると、次期挑戦者に中西を指名。同月に行われた中西vsボブ・サップ戦を引き合いに出し、「サップを正面から受け止めた。(中西は)負けはしたが、価値は全然落ちてないよ」と高評した。対戦は2003年3月9日に決定。永田は、「この試合で、世間と対決したい」とした。時は総合格闘技ブーム。同時期、既に打撃も含め、総合格闘技用の練習もしていた中西だったが、技術不足もあり、何度もスパーリング用のマットを這わされた。ところが、日参するにつれ、周囲の反応が違って来たという。「お前、凄いな。疲れてないのか?」朝から晩まで練習のテンションが全く落ちない中西に、格闘技関係者の方が、目を丸くしたのだった。
迎えた永田との一戦は、互いのバックドロップホールドやジャーマンスープレックスが交錯する、60分動き回ってのフルタイムドロー。同試合は、今年6月のオカダvsケニー・オメガが行われるまで、新日本の最後のフルタイム戦でもあった。前出の内田氏はこう語る。「彼らが苦しい時代を支えたから、新日本の現在があると思うんだけどね」……。
「親父の農業の手伝いで、小さい頃から足腰には自信があったんですが」(中西)
2011年5月、中西は首の負傷により、長期欠場。同年8月29日、永田は、メインで矢野通をロープに飛ばし、そのまま戻って来たところを、バックドロップホールドに決めた。「中西学へのメッセージです」とした永田。フィニッシュ名は、こう記載されている。「大☆中西バックドロップホールド」。それは、永田が後楽園ホールで初めて行う、自主興行を締めた技でもあった。
2012年、悲願の復帰を果たした中西学は、こんな述懐をしている。「恥ずかしいけど、若い頃より練習をするようになったんです」
「僕らには、闘魂三銃士(武藤、蝶野、橋本)のような輝きやスター性はなかった」と語る永田。「でも、同い年の時の彼らと、僕らを比べて見て下さい。僕らの方が、彼らより、よほど動けて、そして頑丈な筈です」。それは、練習をおろそかにしないという新日本イズムを自分達が守って来たという自負でもあった。
互いに、現役バリバリの2人が何を見せるのか、大いに期待したい。
この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎
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全然動けてなかったよ
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