2021/10/25 9:55

1回目から怪我に見舞われていたG1!G1だけは常に見ていた柴田!飯伏負傷の結末!『G1と怪我』を考える。

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1回目から怪我に見舞われていたG1!G1だけは常に見ていた柴田!飯伏負傷の結末!『G1と怪我』を考える。
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フェニックススプラッシュの自爆で、レフェリーストップ負け!


 後楽園ホール4階の西側コメントルームは、お通夜のような、暗い雰囲気だった。優勝会見というのにである。そこに、ジュニアの大御所、獣神サンダー・ライガーが現れ、言った。「何か暗いなあ。デビちゃん、スマイルね!」そこでようやく、優勝者のプリンス・デヴィットも笑顔を見せ、乾杯となった。2010年6月13日のことである。この日は『BEST OF THE SUPER Jr.』の決勝戦。デヴィットがブラディサンデーを決めてフォール勝ちを収めたのだが、その直前でハプニングが。優勝を争う飯伏幸太がファイヤーバードスプラッシュを敢行した際、左肩を負傷。飯伏は肩を押さえながら、それでも蹴りを見舞うなど気力を見せたが、手負いと見てとったデヴィットが即、フィニッシュを畳みかけ決着。会見の雰囲気はその不完全燃焼ぶりを、ひきずったものだった。まさかあの日の光景がリプライズするとは。

 今年の『G1 CLIMAX』が、衝撃の結末を迎えた。10月21日の決勝戦、オカダと対戦した飯伏がフェニックススプラッシュを披露も、かわされると、そのまま動けず、レフェリーストップ負け。マットに強打した右腕を、脱臼したのだった。

「魔物が棲む」と、よく呼称されるG1。だが、本年の同大会は、開幕戦で左膝を負傷した内藤が、その後、全戦を欠場。脇腹を痛めながら満身創痍で全公式戦を戦い抜いたタイチは、次期シリーズの“休場願い”を示唆している。主力にこうも難が続くこと自体、一種の暗影として気がかりにはなろう。

 今週の当欄は、『G1と怪我』について詳述、並びに、考えてみたい。

G1における、選手の怪我の歴史。


 言うまでもないが、(近年は秋開催とは言え、)盛夏の過酷なリーグ戦として知られる『G1 CLIMAX』。早くも8選手参加の2リーグ制でおこなわれたその1回目から、深刻な負傷禍はあった。公式戦2戦目で体の不調に気付いた長州力が病院に行ってみると、首の骨がずれていることが判明。しかし、そもそもG1のコンセプトを立案したのは、他ならぬこの長州。まして、1リーグ4人の中で、自分が欠場するわけにはいかない。結局、長州は公式戦全敗。以降、入院となり、復帰まで2ヵ月を要した。

 2回目はトーナメント制で行われた、蝶野が優勝したが(※1回目に続く連覇)、戦前より首の調子が思わしくないところに、優勝したということは、毎日が大一番のシングルマッチ。首は最悪の状態に。何度か書いて来たが、準決勝が終わって帰宅も、首が言うことを聞かず、車から出るのに30分以上かかったという。それでも優勝し、当時の提携団体だったアメリカのWCWが復活させたNWA王座を戴冠。王者として現地で防衛戦もおこなったが、蝶野はこれを、今でも悔いている。「首の状態が最悪で……。自分で言うのもなんだけど、最悪の試合しか出来なかった。調子が良ければ、全米に俺をアピール出来て、プロレス人生もより変わっていたかも知れないんだけど……」(蝶野)

 1996年の第6回大会は、長州が全勝優勝するも、大会中は血尿が出る厳しさ。1997年には、大会前に蝶野がWCW遠征で右足首を脱臼、及び同ヵ所の靭帯を断裂。にもかかわらず、G1には出場。この時に既に3回の優勝を果たしているG1の顔だったからだが、トーナメントで行われた同大会で、2回戦敗退。大役を無事果たしたかと思いきや、病院に行くと全治3ヶ月の診断を受け、直後のナゴヤドームでのIWGPヘビー級王座挑戦(vs橋本)も棒に振ってしまった。

 1999年には、脊髄損傷ながらも闘い続けた山崎一夫が、最終日の越中戦を不戦敗。大会も全敗で終了。自らの体調を悟ったか、翌年の1月、肺気胸で、37歳での引退となった。

 2004年には大会2日目に大ハプニング。佐々木健介と死闘を展開しエベレストジャーマンで勝利した高山善廣が、直後のバックステージで勝利者賞の目録を落とすと、昏倒。緊急搬送の結果、右半身麻痺をともなう脳梗塞と診断され、無念の以降不戦敗。そして長期の戦線離脱へ。復帰は約2年後だった。

 2005年には真壁刀義が大阪での2戦目、コーナーの中邑に走り込んでのエルボーを見舞おうとし、突然転倒。僅か2分30秒、左アキレス腱断裂でレフェリー・ストップ。復帰までは5か月を要した。同年、その中邑にもアクシデントが。静岡での矢野戦で場外へのトルニージョ(横回転式プランチャ)を仕掛けた際、頭部から落下。脳震盪を起こし動けず、5分15秒、両者リングアウト裁定に。とはいえ、中邑は翌日以降も出場し続けた。この時期はまさに、新日本プロレスの冬の時代(※同年11月に(株)ユークスに身売り)。若きエースとしての責務だったろうが、万が一があったらと思うと身のすくむ思いだ。

 2007年には、その中邑に凶事が。最終日に行われた準決勝の永田戦で雪崩式エクスプロイダーを食らった際、不自然な形で落下。左肩鎖関節靭帯断裂および脱臼で、レフェリーストップ負け。復帰まで3ヶ月の重傷だった。

 2009年大会の準決勝では、その中邑の左ハイキックを受けた棚橋が、右目を眼窩内側壁骨折。ボマイェに惜敗した棚橋は翌日、3時間に及ぶ手術。「目を動かすだけでも痛い」という深手となり、全治1か月。保持していたIWGPヘビー級王座を返上する憂き目となった。

 また、同じ2009年には、過去3回の優勝を誇るタフガイ、天山も脊椎管狭窄症と右肩亜脱臼により無期限の欠場扱いに(両国3連戦の初日から)。脱臼はリーグ2戦目の怨敵・飯塚髙史のパイルドライバーによるもので、その後も数試合、怪我をおして出ていたことがアダとなった。復帰はなんと1年3ヶ月後だった。

 時を経るにつれ、参加選手も多くなり、ハードさが増すG1。遂に各10人の2リーグ制となった2013年には、天山が肋骨骨折のため、7戦目より不戦敗扱いに。また、それまでトップを走っていた後藤洋央紀が、同じく7戦目、棚橋の張り手で顎を骨折し、こちらも以降は不戦敗扱いに。遂に1大会で2人の途中離脱者が出ることとなった。

 そして、翌々年、2015年の『G1 CLIMAX』から、遂に日程上の大改革が行われることになった。1大会につき、1ブロックの公式戦を行い、他方のブロックの選手は休養も出来る運びとしたのである。

2015年より、公式戦は隔日開催も……。


 何せ、リングドクターの口癖が、「G1期間中のバックステージは、まるで野戦病院」。裏話にはなるが、実は直前まで病院で治療を受け、会場に直行する選手も多かった。改善がなされたこの年、中邑が左肘の不調により、公式戦3戦目のマイケル・エルガン戦を欠場。不戦敗となり、動静が心配されたが次戦より復帰し、棚橋との決勝まで駒を進め、準優勝となった。公式戦日程合間の休養日が、吉に働いたのは想像に難くない。ところがである。同大会閉幕後、新日本プロレス公式HPより、以下の告知がなされた。

「ファンの皆様からは、長期間に渡る日程と試合数、また連日の移動などによる、選手のコンディションへのご心配も頂いておりました。今後の『G1 CLIMAX』シリーズにつきましては、選手コンディションに過度の負担の生じない日程、開催地の見直しを図り、開催する所存です」

 実は、初めて余裕を持ったこの年でも、大会中、負傷する選手は多かったのだ。先述の中邑をはじめ、棚橋は首、矢野は右目、天山は右まぶたを負傷。さらに裕二郎は、公式戦ではないタッグマッチで右肩を負傷。首の痛みと併せ欠場となり、復帰は3ヵ月半後だった。

 以降、新日本側も、日程を開けるなど対処。2015年以前のような惨状は目立たなくなったが、にもかかわらずの、今年のこの状況を、どう捉えれば良いのか。この文脈で伺ったわけではないが、数年前インタビューした、蝶野正洋の言葉を紐解こう。

「新日本てさ、今も昔も、選手の離脱とか復帰とか、まあその他にも、色々あるだろ? でも、G1の時だけは、試合そのものに全身全霊、集中出来るんだ。G1て、俺にとってはそういう大会なんだよ。真正面からプロレスそのもので、勝負出来るというのかな。新日本の本流に戻せるというか」

 今回の決勝戦が行われた日本武道館大会でサプライズ登場し、リングでザック・セイバーJrと手合わせした柴田勝頼も、かつて、こう振り返ってくれた。

「新日本プロレスを離れていた時期も、俺、G1だけは好きで、絶対に見てました」

 言いかえれば、闘いの純度の高まりによる、名誉の負傷ということにもなる。これをどう捉えれば良いかということになって来よう。

飯伏の本心は?


 棚橋弘至は、三沢光晴の試合での急逝を経て、以下の考えに至ったという。「プロレスとは、危険度ではなく、競技、つまり、技術を競うものである」と。エースの責任から来る警鐘であり、以前も書いたが、この考え方はより良く透徹されているように思う。だが、それでも頑張ってしまうのがレスラーであるし、考え方が違う選手もいる。その1人が飯伏だと思う。

 公式リーグ戦の、実質的な進出戦となったKENTA戦では、場外で机上に同選手を配置も、机が斜めに傾斜。そこにトップコーナーからダイビングボディプレスを敢行。今回の決勝戦にあたっては、Twitterで、こう呟いている。『解禁されたかなーやっちゃおうかな!武道館と言えば!』。おそらく2012年、所属のDDTの日本武道館大会で見せた、2階席からのケブラーダの再披露を考えていたのだと推察出来る。披露ようとした瞬間、関係者が口頭で止めようとするのだが、飯伏がこう返したのは有名だ。「うるせぇバカ、オラ!」いずれも危険どころではない技であるし、昭和世代の筆者としては、このような危うい展開自体に、疑義を唱えたくもなるのだが、それも違うと思う。なぜなら、この破天荒さこそ、飯伏自身の本懐の現れるところ、要は本望だと理解するからだ。残念ながら、そこに他人が介在する余地はない。そして、今回、一番悔しいのは、飯伏自身だろう。つまり、今回の事故は、他ならぬ飯伏自身に、さまざまなことを考えさせるきっかけになったのではないだろうか。周囲の支え、ファンの気持ち、etc。

 優勝者、オカダが再戦を希望している。そこが良くも悪くも、マイルストーン(大きな節目)になるのではないかと思う。同試合で飯伏が何を見せるか、復帰を含め、見守りたい。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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