2021/10/18 9:21

自身の救済興行で号泣熱唱!今も手元に残る橋本真也の逸品!安倍晋三元首相と一騎打ち!元プロレスラー・竹村かつし、出馬へ!

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安倍元首相のお膝元、山口4区から出馬!


 プロレスにそれほど明るくない方と、同じムックなどでご一緒することもあるのだが、よく聞くのが、以下のボヤキである。「プロレスラーの名前は、一発変換しにくい」なるほど、『中邑』真輔はまだいいとして、後藤『洋央起』はそのまま出ないだろうし、真壁『刀義』はリングネームだ。もちろん筆者は適宜、単語登録しているのだが、そんな中でも、一瞬、困惑を感じさせる出来事があった。2019年の2月初めである。編集者から連絡が来たのである。「竹村豪氏選手のインタビュー、やってくれませんか?」「竹村って、元無我の?」「ええ、今は山口県にいるそうなんですが……」もちろん了解したのだが、妙なことが気になったのである。当欄をお読み頂いてる方ならお気づきかも知れないが、不祥・筆者は、得てして、人名に敬称をつけることが多い。(ということは、竹村豪氏氏になってしまうな……)下らないと思うかも知れないが、文字にする方としては、かなり気になる事実である。書籍に載るインタビューだったのだが、校正者も戸惑うこと請け合いだった。結局、今は本名を平仮名にした竹村かつしで活動しているというので、ことなきを得たが。

 その、竹村かつしが、熱い注目を浴びている。来たる19日に公示される第49回衆議院選挙に『れいわ新選組』より立候補するのである。しかも、その選挙区が、『山口4区』。そう、ご存じ、安倍晋三元首相のお膝元であり、同県内の野党候補一本化の方針もあり、一騎打ちの様相を呈しているのだ。来週以降、そして、投票日の10月31日に向け、この竹村の動きが更に刮目されるのは、間違いないだろう。

 今回の当欄は、この竹村かつしを、そのプロレスラー時代から、辿ってみたい。

新日本プロレスでは七番勝負も。


 竹村かつし(本名:竹村克司)は1972年、京都府生まれ。1996年4月に、藤波辰爾率いるプロジェクト『無我』の入門テストに合格。翌1997年7月22日に、アレキサンダー大塚を相手に、リングネームの竹村豪氏でデビューを果たすも、ほぼ何も出来ずに完敗。師匠の藤波自身、「本当はまだ、半年ほどデビューを待ちたかったんだけど」とコメント。デビューまで1年3ヵ月かかっているのにである。実は竹村は、さしたるスポーツ歴なしにこの世界に飛び込んで来たのだった。

『無我』は藤波のソロ・プロジェクトだったため、試合数も少なかったが、デビューまで繋いだよう、時にアルバイトもしながら実直に努力。2000年10月には、藤波の計らいで、小川直也に負けて一旦引退を余儀なくされ、捲土重来を期す橋本真也のスパーリングパートナーも何回か務めている。そんな努力の甲斐あり、2001年2月には新日本プロレスに入団。2002年6月には、『竹村豪氏ジュニア7番勝負』も組まれ、全敗したが、獣神サンダー・ライガーやタイガーマスクと激突。翌月よりのメキシコ遠征でNOSAWA論外やMAZADAと東京愚連隊を結成してからは更に台頭。IWGPジュニア王座(vs4代目タイガーマスク、ヒート)や、全日本プロレスの世界ジュニア王座(vsカズ・ハヤシ)にも挑戦している(いずれも惜敗)。

 ところで、京都出身の竹村が、なぜ山口県の4区から出馬するのかについてだが、こちらはそもそも奥さんの実家で、竹村は負傷をきっかけにこちらに在住。介護職に就き、2015年にはその事業所を設立。結婚のきっかけは2003年10月20日、新日本プロレスの山口県・海峡メッセ下関大会。この際の宿泊先のホテルのフロントのYさんに竹村が一目ぼれ。手紙を渡し、交際がスタートし、めでたくゴールインとなったのだった。ドラマを地で行くような話だが、もちろん奥さんも今回の選挙を、夫唱婦随で応援している。そして、結婚式の仲人が藤波辰爾夫妻。06年1月、前年の身売りかつ、予算の大幅削減で、新日本プロレスは大荒れの契約更改となったが、竹村もこの機に退団。同年8月、藤波の興した『無我ワールドプロレスリング』に馳せ参じたのだった。

自身の復帰を願う興行で、本人が客を出迎え。


『無我ワールドプロレスリング』では、竹村に限らず、ほぼ全選手やその家族が営業を担当。愛着を持って頑張っていたが、そんな中、2007年10月には、西村修の電撃退団というトラブルが。退団発覚の当日に全日本プロレスに登場。しかも、無我の若手の征矢学や、『無我』の商標まで個人で所有していたことが発覚するといった事態に、真面目な竹村も、「辞めるのは個人の事情だけど、辞め方には問題があるのでは?他団体で戦いたいなら、無我所属のままでも出来なくないですし」と怒りを隠せなかった。その言葉に沿うように、無我所属のまま、翌年1月、全日本プロレスのリングに登場。西村&征矢と対戦するNOSAWA論外&MAZADAが、「お年玉を持って来てやる」として、竹村が白Tシャツ姿で乱入。表にはマジックで『西村 お前は男の恥だ』、裏には『無我』と大書されていた。以降もマットを股にかけ、順調にキャリアを積んで行くと思われたが、2009年1月6日、諏訪魔のバックドロップホールドを受けた際、左肩を負傷。長期欠場が発表され、3月18日には、東京愚連隊の音頭で、『TAKEMURA AID』が開催。ところが、と言っては何かも知れないが、この会場に、竹村が現れたのだ。しかも、スーツ姿で。実はこの時期、竹村はプロレスを続けるかどうかで悩んでいたのだった。しかし、入場口に立ち、観客1人ひとりを出迎える竹村。それも、御礼だけでなく、「(欠場して)すいません」の言葉を添えて。東京愚連隊で、最も付き合いが古いMAZADAの言が残る。「いい人過ぎて、損をするんですよ。性格的に、プロレスラーは向いてないかも知れない」

「人柄に惚れた」という声多数。


 思えば、デビュー時からそうだった。半年早めのデビューの場を与えられ、しかし完敗し、号泣。ところが藤波が、「でも、気持ちは凄く伝わってきた」(※因みに対戦相手のアレキサンダー大塚も、同様の発言をしている)と言うと、またまた号泣。西村の無我退団の時は、実は別のことを気にかけていた。「それよか、心配なのは、征矢なんです。若くしてこんな辞め方をして、業界の方に嫌われないかって……」。『TAKEMURA AID』ではリング上での挨拶の時間が取られたが、周囲への感謝の言葉が長すぎ、客席から「タケ、もういいよ!」の声が。メイン後も仲間たちの戦いぶりに感動した竹村が、涙を流しながら現れると、NOSAWAが、「タケちゃん!泣いたところで、1曲、お願いします!」と土下座。竹村も十八番の『また逢う日まで』を熱唱。客席は爆笑していたが、1人、竹村だけは号泣していた。

 そんな愛される性格は、今回の選挙でも表出。「生きているだけで価値がある世の中を作りたい」と言う、『れいわ新選組』代表、山本太郎氏の言葉に共鳴し、今回の出馬に至った彼の元には、昨年より、県内外から50人近くのボランティアが集まり、ポスター貼り、及び、その貼り替えを適宜お手伝い。それも、その面々は20代から70代まで、職種も主婦、会社員、自営業、退職者などさまざま。「人口の流出や、シャッター商店街の増加など、問題は多々あるのに、元首相のお膝元なのでオール与党化して緊張感のない政治が続いている。風穴を開けて欲しい」という然るべき意見の一方で、「穏やかで実直な性格に惚れた」という声も多い竹村。先述の橋本真也との練習の日々を経て、忘れられない物があるという。

「2003年の1月ですか。新日本プロレス時代に、橋本さんの付け人だった鈴木健三(現KENSO)さんが、『竹村さん、これ預かってくれませんか』と言ってきたんです。僕とはそれほど親しくはなかったのですが」それは、橋本真也が、小川直也との『負けたら即引退試合』の入場時にしていたハチマキだった。「健三さんは、その後、長州さんの団体(WJ)に行く予定でした。橋本さんと長州さんの間には軋轢もありましたし、『自分が持って行くのは筋違いだ』と思ったのでしょう」もちろんそのハチマキは、今も大切に持っていると言う。この逸話一つからでも、周囲から見ての、竹村の人となりや信頼が伝わって来ないだろうか。

 橋本真也がその後年、スローガンとした信条は、『破壊なくして、創造なし』。竹村が現状に挑み、一新させることが出来るか、注目したい。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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