2021/10/11 12:07

全観客が泣いた?あの伝説の試合!大阪府知事もリング上へ!スターダムが進出!大阪城ホール特集!

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10月9日、スターダムが進出!


 4年前だったか、新日本プロレスで中核をなしていたAさんという方が退社されたことがあった。Aさんはフロントながら、いわゆる現場責任者のような人で、例えば開場前、選手の練習が始まると、リングサイドにいるメディアに対し、やんわりと中座を要請するのがAさんだった(※他団体はそうでもないが、新日本プロレスは選手の練習時はメディアを同席させない。長州力が現場監督だった頃の名残のようだ)。当然、メディアとも胸襟を開ける方だったので、そんなAさんに、まだブシロード体制に入る前だが、何の気なしに、こう口に出したことがある。「毎年の東京ドーム(大会)も、大変ですよね」。Aさんは答えた。「でもさ、毎年、『東京ドーム大会をやれてます』ってのが、銀行とか取引先の信用には、凄くでかいんだよね」。先ごろ、同じような台詞を聞く機会があった。他でもない、ブシロード会長、木谷高明氏の言葉であった。「大阪城ホールでやった、という事実が大事なんです」。それは、同じくオーナーを務める女子プロレス団体、スターダムについてのことであった。「大阪城ホールも、コロナじゃなければ躊躇しました。でも今は、埋まっていないから不人気、とはならないですから」(『Number Web』9月30日更新分。前言も)。その士気と心意気に、感じ入るものがあった。

 10月9日(土)、遂にスターダムが大阪城ホールに進出した。前出のように、観客で埋めるのが至難な大会場であり、それこそ言葉通りだが、開催したことが団体の箔にもなるランドマークでもある。

 この大イベントの開催を記念かつ、その業界の悪戦苦闘の歴史も含め、今回の当欄は大阪城ホール特集としてお送りしたい。

運営は『株式会社大阪城ホール』。


 大阪城ホールは、大阪城公園の市有地に立ち、大阪市が全額出資の子会社が運営。開館は1983年10月で、プロレス団体としては新日本プロレスが初使用(1984年3月21日)。カードは猪木&坂口征二vsディック・マードック&アドリアン・アドニス、長州力vs藤原喜明などで、動員は主催者発表で11,500人ながら、無印。いかに大きな会場かということだが、実際、プロレスで利用する時の最大収納人員は、約16,000人。初の札止めを達成したのは、翌1985年の7月28日に、同じ新日本プロレスが達成。メインは猪木vsブルーザー・ブロディであった(発表は13,740人)。結果は猪木の反則負けなのだが、専門誌『週刊ゴング』の当時のひとコマ漫画には、猪木を含め、バンザイをして喜ぶ新日本レスラーズの姿が。「反則負けなのに?」「いや、大阪城ホールを初の札止めにしたので」という記者のやりとりが書かれていた。つまりは、やはり、埋めるのが難しい会場だったのだ。

 ところが、1985年から1987年にかけて、プロレス団体は、女子を含めると15回以上も同会場を使用。これだけ使っていれば、この時期、「大阪城ホール=プロレス」と刷り込まれたプロレスファンも多かったに違いない。藤波辰爾vs前田日明(新日本プロレス)をはじめ、長州力vs天龍源一郎(初シングル)、長州力vsジャンボ鶴田(いずれもジャパンプロレス主催)など、数々の名勝負も生まれた。

 だが、これにはもちろん事情もあった。現在も稼働する大阪府立体育会館(エディオンアリーナ大阪)がこの時期、改修工事に入っていたのだ。詮無く言えば、代替会場の意味合いもあったのである。現に全日本プロレスは1986年を最後に、同会場を一度も使用していない。新日本プロレスはその後も使用し、例えば1989年5月25日の大会は、『プロリンピック』と銘打たれ、日本、アメリカ、そして当時、鳴り物入りで新日本プロレスマットを跋扈していたソ連軍レスラーを含めた3国対抗戦がその主旨となり、12,530人(満員)を動員。だが、この時、実券の入場者は3,000人ほどだったと、後に当時の営業担当者に聞いた。かように動員の難しかった大阪城ホール大会は、近年のファンもご存じのように、2015年に復活(7月5日。新日本プロレス)。報じる毎日新聞大阪版に、こうある(※人名は伏字にしてあります)。

『会社員、Wさん(43)は「21年前も大阪城ホールに見に来たが、あまりの熱気に驚いた。5歳の息子を連れてくることができて、嬉しい」と話していた』(2015年7月6日付)

 そう。改まるが、新日本プロレスですら、21年間、同会場を使えていなかったのだ(1994年9月27日の、橋本真也vs蝶野正洋以来)。

 そんな中、2003年、2004年と、同会場を2年連続で使用した団体があった。まさにその団体名宜しく、大阪プロレスであった。

他業種との交流で、連年開催実現!


 1999年4月に旗揚げした大阪プロレスだが、時の代表かつエースだったスペル・デルフィンは、早くから同会場進出に照準。もちろん同団体のメジャー化を見越してだが、準備も着々。同年11月には、関西のお笑いの総本山、吉本興業と業務提携&タレント契約。スポーツ選手と同社とのタレント契約は、石井一久、長谷川滋利を手始めに、今では珍しくもないが、実は大阪での契約選手第1号はデルフィンだった。初開催(2003年2月1日)の前年には、同団体のタイガースマスクの露出が増大。デビュー以来、連敗街道まっしぐらだったのだ。当時の阪神タイガースは、星野監督政権下の1年目で、今度こその優勝が嘱望されていた時期。実際、戦績も悪くはなかったが(この年4位で翌年優勝)、そんな中、「お前は何で負けてるんだ?」という味付けがなされたわけである。関西出身のアイドルユニット(『Chunchun』)とのコラボもあった(同ユニットの名付け親がデルフィン)。

 果たして当日の主催は、大阪プロレスのみならず、吉本興業、よみうりテレビが名を連ねた。共催と言っていいだろう。お笑い芸人のコントあり、舞台装置は両者のノウハウを活かした1500万円の豪華版。動員は7,868人に終わったが、この興行を、吉本興業もよみうりテレビも高く評価。翌年2月21日の連続開催に繋げた。

 因みに、この時は『SUPER J-CUP 4th STAGE』が開催。更には、太田房江・大阪府知事(当時)がリング上に登場し、開会宣言。もちろん、事前告知もあり、ぬかりなかったが、ただ、大阪府知事に挨拶してもらうという意味ではない。同知事が、大相撲春場所での、力士への各種贈呈作業を拒まれていたという背景があった。そう、土俵上は、女人禁制だからである。「房江」コールを浴び、開会宣言の大役を果たした同知事は、直後に取材陣に、「プロレスは、男女共同参画のスポーツ。良いですね~」と上機嫌。無論、相撲協会への皮肉もあったが、こちらも大々的に報道されたのは言うまでもない。

 惜しくも大阪プロレスの大阪城ホール大会は現時点でこちらが最後で、デルフィンも同団体を離れてはいるが、この時期のデルフィンの他業種とも積極的に交流する姿勢は、今後も大興行成功へのヒントにはなると思う。

女子では26年ぶりの、大阪城ホール大会開催!


 そして、まさに今回のスターダムに先んじる、女子プロレスの同会場初使用となるのが1985年8月28日の全日本女子プロレス。メインカードは伝説の、長与千種vsダンプ松本の髪切りマッチ。12,000人の大観衆が集まった。私事で恐縮だが、2017年に、プロレスの名勝負をファンによるアンケートでランキング化するムックを作ったのだが、その20位がこの長与vsダンプだった。驚いた。と言うのも、その際、回答者が思い出しやすいように、今までのプロレスの名勝負が一望出来る表を作り、同時に配布したのだが、その表には、男子のプロレスの試合しか載せていなかったのである。上の編集方針だったが、特に他意もなかったと思う。そこに食い込んできた同会場の同試合。当時の視聴率がフジテレビで午後7時から放送の、18.1%だったこともあろうが、その会場の熱気かつ、決着後の異常な雰囲気あいまっての評価なことは疑いないだろう。敗退し、髪の毛を切られた時の、長与の述懐が残っている。「1万人以上、お客がいた筈なのに、泣き声しか聞こえなかった……」なお、今回のスターダムは、女子プロレスとしては1995年の全日本女子プロレス以来、26年ぶりの大阪城ホール大会となった。

 あまり元気のないように見える日本のプロレス界の中で、気を吐いている印象のスターダム。12月29日には両国国技館大会も決定した。内容的に既出にはなるが、スターダムを配下に置く際、木谷会長に以下の意思があったのは有名だ。

『スターダム子会社の理由は海外進出(中略)。米国でプロレスの興行をやると毎回、「1試合くらい女子の試合をなぜ入れないのか」と言われる。海外進出を目指すには女子レスラーが必要になるのです。(中略)そのため女子レスラーが安定した収入を確保できる団体を日本に作らなければいけないと考えました』(産経新聞。2021年4月24日付。同様の発言多数)

 AEWはハングマン・ペイジ復活や、ボビー・フィッシュの入団など、勢いを増しているし、WWEもレスリング金メダリストのRAW入りが話題と、躍動している。スターダムの大阪城ホール大会の成功が、世界と勝負出来る日本のプロレスの元気につながることを、願ってやまない。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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