2021/2/22 10:02

初のメジャー統一戦に秘めた、マッチメイカーの狙い!ベルトを10円玉扱いした中邑!飯伏の2冠統一に内藤が疑義!ベルト統一問題を考える。

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初のメジャー統一戦に秘めた、マッチメイカーの狙い!ベルトを10円玉扱いした中邑!飯伏の2冠統一に内藤が疑義!ベルト統一問題を考える。
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2月28日、インターコンチ王座のみに、内藤が挑戦!


 1996年8月、『G1 CLIMAX』の最中に、ジュニア8冠統一トーナメントなるものが開催されたことがあった(大会名『J-CROWN』)。団体の至宝を含む、各ジュニア王座を保持する王者が8人、一堂に会し、ベルトをかけてトーナメントに参加。つまり、優勝すれば8冠王!初代王座はザ・グレート・サスケだったが、うち、指定したベルトへの単独挑戦も許容される格好に(WARのIJ王座など)。8冠は、7冠となり、結局、1年で、王座は、各管轄に戻される形で解体してしまった。これについて、同企画の提唱者でありながら、「理解出来る」とした、獣神サンダー・ライガーの言葉がある。「レスラーはみんな、自分の団体のベルトが目標な部分はあるわけじゃないですか。それがなくなるってことは、モチベーションの問題にもつながりますから。8冠となると、なかなか挑戦するチャンスも巡ってこないですしね」(『獣神サンダー・ライガー自伝(上)』より)

 新日本プロレスの2冠統一問題が、波紋を呼んでいる。現IWGPヘビー級&同インターコンチネンタル2冠王者の飯伏が、両王座の統一を示唆。これに内藤哲也が噛みつき、実際、2月28日の大阪城ホール大会では、飯伏の保持するIWGPインターコンチネンタル王座のみへの挑戦が決定。結果次第ではあるが、2冠体制は、早くも解体か、持続か、注目されているのだ。

 今回はこの、ベルト統一問題について考えてみたい。

IWGP、三冠、Wタイトルマッチの裏事情。


 自明のことだが、2冠王と統一は同義ではない。2005年2月20日、史上唯一のIWGPヘビー級王者(天山広吉)vs三冠ヘビー級王者(小島聡)のダブル・タイトルマッチがおこなわれたが、勝った小島はあくまで2冠王であり、両者を統合しようなどという論調もなかった。因みにこの一戦、やや唐突な決定でもあったのだが(決戦約1ヶ月前の1月17日に発表)、新日本サイドから持ち掛けた交流。前年に新日本はマッチメイカーがU氏から、田中秀和(リングアナ)を始めとする複数名制に代わっており、こちらの企画だった。後に取材した田中氏が、「全日本まで交渉に行ってね。(会場の)両国国技館を満員にしたくて」と述懐。全日本サイドは、渕正信が、「ウチの三冠の方が上だと思ってる」と発言したり、同一戦への和田京平レフェリーの起用を譲らなかったり、若干、強気だったのだが、かような内実があったわけだ。因みに、試合は、60分タイムアップ寸前の59分45秒、天山が脱水症状と取られ、小島のKO勝ち。この6年後に、和田京平さんにインタビューした際、特にこちらが振ってないにもかかわらず、この時の結末の話題を出し、「あれは自分の中でも名裁きだったよな」と語っていたのが印象に残る。

 この一戦を打ち出した背景としては、前任のU氏が、プロレス経験の浅い(もしくはない)選手を重用するマッチメイクをしていたことも挙げられる。田中氏には、こちらへの疑義もあったようだ。つまりは、プロレス本来の魅力を訴えられるカードをいうアピール。当日、会場の両国国技館に続く、長蛇のファンの列を目にし、プロレスの底力を感じたものである。とはいえ、田中氏は田中氏で、「最初は60分3本勝負が、結局、1本勝負になって。あの後、天山&小島vs棚橋&中邑も考えてたんだけど、天山の脱水で、それどころじゃなくなって(苦笑)」結局、3ヵ月後、天山がIWGPのみを取り返すことで、メジャー2冠王体制は終わりを告げた。

 GHCタッグ王座が、IWGPタッグ王座と同舟したことも(2011年6月~翌年1月)。こちらも、GHCタッグのみを、王者ジャイアント・バーナード&カール・アンダーソンから秋山準&齋藤彰俊組が取り返すことで終了。当たり前ながら、管轄団体が違うため、こちらも統合の声は上がらなかった。

統一の機運に乗った、全日本プロレスの老舗王座。


 では、実際、日本マットにおいてベルトが統一された例を見てみると、先ず、その名称通り、三冠ヘビー級王座(全日本プロレス)が挙げられよう。ベルトの乱立を憂い、PWF、インターナショナル、UNの3冠を統合したものだが、統一には1988年より約1年の道のりが。拙著の類にも何度も触れてきたが、ざっくり言うと、まず天龍とハンセンで、UN及びPWF王座を争い、鶴田とブルーザー・ブロディでインター王座を獲りあい、最後は1989年4月、ハンセンと鶴田で決着(鶴田が初代王者に)。途中でブロディの急逝や、谷津嘉章の挑戦もあり、名勝負も続出。2006年10月、この3つのベルトを(形状的に)1本化するという話が出た時、佐々木健介が猛反対したのは有名。「命をかけて戦った先輩たちを、愚弄する処置だ」。健介自身、プロデビュー時にあったトップ王座がこの3つだったため、それぞれのベルトの重みの銘記もあったのだろう(※2013年に、3本のベルトをジャイアント馬場家に返還するため、新たに1本に新調)。

 現世界タッグ王座も、2つの王座を統一したもの。1988年6月10日、インターナショナルタッグ王者、ザ・ロードウォリアーズと、PWFタッグ王者と鶴田&谷津組が対戦。後者の勝利により『世界タッグ王座』として一本化。年度に着目してほしいが、ちょうど、シングル王座三冠が統一に向けて動いていた時期なこととこの流れは無関係ではない。ただ、すぐそうなったわけでなく、試合の2日後にジャイアント馬場が渡米。「NWA、PWFの了解を経て」(馬場)、2週間後に帰国後の統一となった。いわば“円満統一”と言えるが、後述もするが、インタータッグは日本においても1966年からの歴史があるものの、PWFの方は1984年からのまだ4年目のベルトであった。この2つを同価値にしたような合体は、当時もかなり議論があったし、それこそ現在のようなSNS時代なら、紛糾していたことだろう。私見を許させて頂ければ、これに関しては、インタータッグ王座に吸収という処置で良かったのではと、今でも思っている。

ファジーな末路の、新日本封印王座。


 そして、今回の2冠論争の舞台である新日本プロレスだ。そもそも、至宝であるIWGPヘビー級王座のコンセプト自体が、「世界中に乱立するベルトを一本化する」というもの。つまり、その時点で世界最強のベルトを目指したわけで、こちらの推進のため、1981年には、当時、新日本にあった、ジュニアのそれを除く、6つの王座が返上(NWF、WWF北米ヘビー、NWA北米ヘビー、アジアヘビー、新日本版アジア・タッグ)。タッグ王座まで返上させられるのは、今考えると何か違う気がするものの、「世界中に乱立するベルトを一本化」という看板に偽りはなく、2年後に行われたIWGPリーグ戦は多いに盛り上がったのだった(以降、1年に1大会の栄冠の位置づけだったが、1987年にタイトル化)。

 さて、そんなバックグラウンドのIWGPヘビー級王座ながら、時が経ると、新日本プロレスでも別のシングル王座が産声をあげたり、復活したり。そしてそれらがまさに、統一戦で争われて来た。その過程を見て行こう。

 1990年9月には、新王座『グレーテスト18クラブ』が誕生。少々変わった名称は、アントニオ猪木のデビュー30周年を記念し、集まった有名選手たち18人が認可するというスキームだったため。よって、相手もこちらが選び、防衛戦ではなく、『(グレーテスト18クラブ)指名試合』という肩書きでおこなわれた。格調も感じるのだが、そもそもこのタイトルの発案は、そのレジェンドたちの集まった宴席でのものであり、よって、ベルトも以前、猪木が『格闘技世界ヘビー級王座』として持っていたそれ。初代王者に長州が“指名”。以降、タイガー・ジェット・シン、橋本真也を退け、1992年1月4日には、IWGP王者・藤波辰爾とダブルタイトルマッチ。勝利した長州は以降、2冠を防衛し続けたがこれをムタが奪取すると、橋本との初防衛戦のあと、あっさりと『18クラブ』の方は返上。理由は、「2本のベルトは重すぎる」という、何ともムタらしいものだったが、さっぱり話題にもならず。オールドファンでもこの終焉をご記憶の読者はなかなかいないと思う。裏事情として、既に18人のレジェンドで、鬼籍に入る選手や(アンドレ・ザ・ジャイアント)、他団体の顧問を務めるようになったOB(※UWFインターと昵懇だったルー・テーズ)もいたりでの形骸化もあったのだが。因みに、くり返すが、元は『格闘技世界ヘビー級王座』(※正式にはWWFマーシャルアーツヘビー級王座)であるこのベルト、2001年に猪木がPRIDEのリングで、マーク・コールマンに与えていた。

 次に、統一の流れになったのが、2003年に復活したNWFヘビー級選手権。触れたように、そもそもIWGPのために封印された王座だったが、強い新日本を取り戻そうという号令のもと、リバイバル。王座決定トーナメントで、外敵の高山善廣が王者になったのも、IWGPの対立要素としては、映えるものがあった。実際高山は、5月に永田からIWGPヘビー級王座を奪取。2冠王になったが、11月には天山に敗れ、IWGPの方のみ陥落。すると、問題が。「IWGPを獲られて、NWF王者でいるのはオカシイ」と、高山自身が言い始めたのだ。確かにその通りで、高山は、「勝っても負けても、次でNWFは封印」とし、2004年の1月4日、その防衛戦に。相手は、天山を下し、IWGP王者に輝いた中邑真輔。こちらの王座もかけられてのダブルタイトル戦は中邑の勝利に終わり、結果的に中邑がNWF王座を封印した形となった。

 また、統一戦でもないのに、封印騒動に遭ったのがU-30王座。名称宜しく、30歳以下の選手に挑戦権が与えられるフレッシュな王座だったが、2005年1月4日、棚橋からこちらを奪取した中邑が、同王座の封印を宣言。理由は「IWGP奪還に邁進したいから」(※当時の王者は天山)。前出のように、中邑は既に2年前にもIWGP王者になっており、もっともな主張だった。ところが、新日本プロレスがこれに反対。「封印は中邑個人の気持ち。会社としては若い選手に目標を持たせたい」とし、同ベルトは中邑からの返上扱いに。この時の中邑のコメントは以下だ。「IWGPを目指すのは新日本のレスラーとしての大儀。U-30があるのは30歳以下はIWGPに挑戦するな、というようなニュアンスが受け取れる」。結局、後日の新王者決定リーグ戦で、棚橋が優勝。その棚橋が翌年、IWGPヘビー級王座に挑むことになると、果たして、同王座を返上。以降、タイトルとして動きは止まった(矢野通が、盗んだIWGPヘビー級ベルトの身代わりとして活用したことあり)。

 げに、タイトルが別のそれに絡むことになると、そこに軋轢が生じるのだ。それも、至宝IWGPヘビー級王座との関連ともなればなおさらのこと。また、良く言えば、それは各王者なりのポリシーがあってのこと。飯伏の2冠統一抗争に反駁した内藤は、こうも言った。「棚橋やオカダは、どう思ってるのかな?」そこに、本当は、もう一つの名前を乗せたかったとみる。「中邑真輔は」と。

“解体”する内藤の真意に注目。


 IWGPインターコンチネンタル王座は2011年に創設。ベルトとしてより輝き始めたのは、第4代の中邑の王者時代だった。「イヤァオ!」た「滾ったか?」などの惹句もこの時期に生まれたもの。最初は赤銅色だった同ベルトを「10円玉かよ!」となじり、お気に召さなかった中邑だが、ゴールドに白のベルトになってからはご満悦。同王座を以降、6代、8代、10代、12代と獲得。奪われても、中邑の腰に戻るベルトだということが数字からもわかろうもの。防衛戦も、棚橋と東京ドームのメインでおこなったこともあれば(2014年1月4日)、桜庭和志、ダニエル・グレイシーを相手にしたことも。飯伏との東京ドームでの防衛戦も名勝負だった。中邑らしさもあるが、規範的存在であるIWGPヘビー級王座とは、違った闘いの色合いを見せてきたのである。前述のPWFタッグ王座と違い、既に10年に迫る歴史もある。

 2月14日の試合後に、内藤は言った。「俺がインターコンチを獲って、防衛期限まで防衛しなければ、消滅する。そうなるんじゃない?」「(インターコンチ王座を)欲しいのは、海の向こうのあの人(※中邑)だけじゃないの?」とはいえ、自身も6回獲得しているインターコンチ王座には、こんな感懐も。「思い入れに関してはなんだかんだ一番あるベルトなのかもしれない」(『東京スポーツ』2月16日付け)。さらに同紙では、こう分析している(大意)。「統一ということは、名称の変更含め、現行のIWGPヘビー級王座でaなくなること。IWGPを残すには、インターコンチの吸収しかないわけだけど……」。そこで内藤的には、両方のベルトへの愛情が顏を出すわけだ。

 冒頭のジュニア8冠王座について、ライガーは語る。「猪木さんの最初のIWGP構想みたいなのの、ジュニア版という狙いは念頭にあった」結局、三冠もそういった「乱立するベルトの1本化」という大義名分のもとに、統一されたものだった。それに比べると、飯伏の統一への狙いやビジョンが、現時点で不透明なのも確かだろう。「IWGPしかいらない」と言っているわけでもなく、2月17、18日のコメント同様、そこを内藤が疑問視するのは、うなづけるところだ。

 今回の騒乱は、はからずも両タイトルを、ファンの注視するところに位置させたと思う。ベルトの動向、そして3月以降の王者が、王座をより輝かせるような展開に、期待したい。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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