2021/1/23 11:31

三沢がドン中矢ニールセンと対戦していた!代役金丸に、三沢から電話が!復活&40周年記念興行決定!2代目&初代タイガーマスク特集!

閲覧数:736

三沢がドン中矢ニールセンと対戦していた!代役金丸に、三沢から電話が!復活&40周年記念興行決定!2代目&初代タイガーマスク特集!
5.0

グレート小鹿&越中&大仁田&渕vs2代目タイガーマスク&大森&菊池&雅央で激突!


 2月4日(木)、後楽園ホールにておこなわれる『ジャイアント馬場23回忌追善興行』の追加カードが1月20日、発表。ちょっとした物議を醸しだしている。第2試合に、以下の名があったのだ。

『2代目タイガーマスク』。

 言わずもがな、三沢光晴を正体とするマスクマンだが、三沢は2009年に永眠。中身を務められる筈もない。よって、一度、この2代目タイガーの中身を代役で務めたことのある(後述)金丸義信の登壇を有力視する声や、はたまた、その金丸に続く代役、いわば“2代目の3代目”の登場も予想されているのだ。

 タイガーマスクと言えば、初代の成功もあり、日本におけるマスクマンの超一大ブランド。よって、そこには、数々の他候補や、誕生のドラマも存在する。まして、1月21日には、先週の当欄では延期と報じた、初代タイガーマスクの主宰する『ストロングスタイルプロレス』の後楽園ホール大会が、改めて3月3日に開催されることが発表。加えて、4月22日、『初代タイガーマスクデビュー40周年記念大会』が行われることも告知された。

 今回の当欄は、初代、2代目のタイガーマスクのなりたち、他に上がっていた候補についてはもちろん、マスクマンの代役あれこれについても綴ってみたい。

初日にバレていた、初代の正体。


 今では知られる話だが、初めてタイガーマスクを名乗ったマスクマンは佐山聡でなく、サムソン・クツワダなる巨漢レスラー。1976年6月、全日本プロレスが韓国遠征をした際、タイガーマスクとなった。同地でも日本のアニメ『タイガーマスク』が放映されており、大人気だったのだ(日本での初のアニメ化は1969年より)。

 その後、1981年4月23日、日本における初代であるタイガーマスクがデビュー。同漫画の原作者である梶原一騎の事務所と当時の新日本プロレスの事務所が極めて近距離にあり(梶原氏の自宅はまた別だったが)、そこでの雑談でデビューが決定したのだった。デビューの3日前、つまり4月20日にアニメ版の『タイガーマスク2世』がスタートすることでの、いわば思い付きでの発進。事実、今では伝説とされるデビュー戦のテレビ放送も、実際のデビューから8日後の5月1日。告知も、事前の「ワールドプロレスリング」で、その登場がアナウンサーの口頭で軽く予告されたのみであった。期待されていなかったのだ。

 言わずもがな、タイガーマスクの“製造”もその場しのぎ。「中身を誰にするか?」については、木村健悟も候補だったが、当時の営業本部長である新間寿氏が、希望する選手名を紙に書いて裏返し、猪木に「社長は誰がいいと思います?」と問うと、猪木は、「佐山かな」。新間氏も、自分の書いた紙を反転。もちろんそこには、佐山の名があった。

 デビュー戦に当たっては、佐山(初代タイガーマスク)は正体不明とされ、会場である蔵前国技館の、物置きのような場所でスタンバッていたそうだが、いざ試合が終わると、弟分である前田日明が、「あ、佐山さん、お疲れ様です」と挨拶。当時の控室はマスコミも入れたため、この辺の緩さの延長か、デビュー戦を報じる『月刊プロレス』には、『佐山に似ている』と明記されている。とはいえ、この時、ファンからはリング上に「ジョージ高野!」という声も。通路奥で見ていたジョージは、「誰があんなカッコ悪いマスク被るか!」と毒づいた。そう、初代のデビュー戦のマスクは、カッコ悪かったのだ。それもその筈。作ったのはB企画のOなる人物だが、こちら、マスク工房でもマスク職人でもなく、新日本のポスターやパンフ、チケットを受け持つデザイン会社&デザイナー。よって、新日本からすれば頼み易かったことは確かだが、それゆえ、デビュー戦のマスクは手描き!因みにマントも手描きだったが、出で立ちを観た新間氏は、「おお、マントはいいじゃないか、マントは」。言外の意味は言うに及ばないが、ここからタイガー伝説がスタートしたわけである。

佐山が三沢を絶賛!


 1983年8月の初代の引退後の翌年、1984年8月に2代目が全日本プロレスでデビュー。実のところ、この年の6月の時点では、そもそも初代(佐山)が全日本で復帰する話もあったのだが、ファイトマネー等の問題で合意に至らず。すると同年7月5日、以前は新日本の興行を受け持っていた関係者O氏が、「じゃあ、2代目を全日本で作ればいいんじゃないですか?」と進言。O氏は当然、梶原一騎ともホットラインがあったのだ。馬場からハワイ土産のマンゴーを貰った梶原氏も快諾(※別にこれが決定打ではないが)。馬場が海外修行中の三沢に電話をかけ、「お前、トップロープの上に、ポーンと立てるか?」と問うたのは有名。海外で立ち技の稽古も積んだが、この時の練習相手の1人が、なんと、後に前田日明と名勝負を繰り広げたドン・中矢・ニールセン。しかも馬場が道場を見渡し、1人1人をチェック。結果、「あの選手がいいな」と推挙し、三沢とやらせたのが当時24歳のニールセンだった。これを目撃し、写真にも収めた先輩記者(『週刊ゴング』にも掲載)が、「馬場さんほどになると、プロレス以外のジャンルでも、卓見に富むもんなんだね」とニールセンが高名になった後年、感心していたのを思い出す。

 2代目のデビュー戦は、試合前から「三沢」コールが飛んだり、どうしてもスピードを初代と比較されるバイアスはあったものの、身長的にはヘビー級ながら軽々とトンボを切るなど、単体として観れば素晴らしい内容。「初代が戦闘機なら2代目は爆撃機」という梶原一騎の見解は、今もって至言に思う。翌年、梶原家に年始の挨拶に来た佐山からは、「あんまり他人は褒めないけど、彼はイイスよ。本物じゃないすか」との評価も。

 そして、候補というか、弟分としてデビューの予定があったのが、『タイガーマスク2号』。正体は川田利明で、馬場から、「コスチュームを作っておけ」とお達しが。おそらく三沢タイガーと若手時代の川田がタッグを組むことが多かったこと、更に、当時の川田が空中殺法を得意としていたことからの発案だったろうが、結局、幻に。厳命を受け、仕上がりに時間がかかるシューズの方を先ず自費で作った川田だが、当然、使われず。「あの(若くて)お金のない時代に、シューズ代は自分にとって痛かった」とは、川田自身の述懐である。

リング外では、中身が違うことも……。


 さてここで少し毛色を変え、マスクマンの代役、つまりは、「内緒だが、本当は中身が違っていた」ということはあるのかどうかを記してみたい。インディ団体ではかようなことはよくあるようだが、言い方は良くないかも知れないが、極端に言えば、それは、中身が誰でもいい場合に思う。怪奇派のマスクマンが、その名前や外形のみ1人歩きしている場合と言っていいかも知れない。デストロイヤー、マスカラス兄弟、カネックにマスクド・スーパースターにライガーetc……。これらの有名マスクマンの、中身が違ってたことがあるとは、流石に読者も聞いたことがないのではないか。例えば、ハヤブサなら、偽ハヤブサ(ミスター雁之助)もいたし、兄である大ハヤブサ(天龍源一郎)もいたが、それは、あくまでそういう個別のレスラー。今回のように、2代目タイガーマスクだが、中身が別、という意味とは違うだろう。

 それでもなぜ、この欄を書いているかと言うと、ちと余談めくが、リング上以外では、本人以外がそのマスクを被る場合もあるため。例えば1988年に全日本プロレスに来日した『ザ・V』なるマスクマンは、その正体自体は、Dなる外国人選手。ところが、事前の宣材写真と本人(マスクマン)が、どうも体型が違うのだった。実は写真の方は百田義浩さん(百田光雄の兄)がマスクを被り、D選手の来日前、撮影したのだとか。このパターンは少なくなく、例えば新日本プロレスのヒートも、2002年8月のお披露目会見でそのマスクとコスチュームに身を包んでいたのは、ソフト事業部のGさんであった(大学野球経験者で、確かに田中稔と背格好が似ていた)。それで思い出されるのが、1990年代中盤、多忙なみちのくプロレス社長(当時)、ザ・グレート・サスケの代わりに、TAKAみちのくがデパートのイベントで、内緒で中身を務めたこと。確か他のスケジュール的にやむをえぬ処置で、挨拶程度で済むため、主催者もしぶしぶ了承済みだったと記憶するのだが、いざ、紹介される段になってハプニングが。女性司会者が高らかにこう紹介したのである。「今日のゲストは、ザ・グレート・サスケ、“2世”さんでーす!」……あの時の女性司会者の発言が、ただの勘違いだったのか、それとも一種のあてつけだったのかが、それとも茶目っ気のつもりだったのか、未だに気になる。

 気の毒だったのが初代タイガー。未曾有の人気でファンがホテルに詰めかけることもしょっちゅう。大抵はロビーで追い返されるわけだが、うち1名、タイガーに会えない絶望で泣きだす女性がいた。やむをえず、ケロちゃんこと田中秀和リングアナが佐山に、「申し訳ないけど、マスク被って降りて来てあげてよ」。佐山は聞き入れ、マスク姿でロビーに登場した。すると、女性は喜ぶかと思いきや、また泣き出すではないか!曰く、

「この人、タイガーじゃない。本物のタイガーが、こんなに小さいわけがない」

「……」(佐山&ケロ)

 スーパースターは、いつの世も大きく見えるものではあるが。

オレンジ仮面・金丸の躍動!


 いささか筆が滑ってしまったが、肝要な『2代目タイガーマスク』代役の件に迫ろう。こちらは1997年10月12日、両国国技館でタイガーマスクだらけのタッグマッチが組まれたことに端を発す。人気バラエティ『トリビアの泉』でも取り上げられたのでご記憶の読者も少なくないと思うが、この興行は他でもない、タイガーマスクの生みの親である梶原一騎の没後10年を記念した大会。それゆえのマッチメイクで、初代と4代目が組み、2代目&3代目とタッグで対戦(※初代は実際はこの時期、タイガー・キングと名乗っていたため、その名での出陣だったが)。ところがこの当日、三沢は全日本プロレスでの大会があった。(熊本・阿蘇郡西原村龍神の湯広場大会)。開始は午後1時だったが、件の梶原興行のK開始も午後1時。この日について、『三沢は所用で欠席することになり』というデータをよく見るが、れっきとした試合での欠場だった。ましてや、三沢はこの時、三冠王座も保持しており、どちらを優先するかは言わずもがなだった。

 実際のところ、この梶原興行、少なくともこの両国大会に関しては、かなり見切り発車であり、当時の取材メモを見ると、発表されたカードに、上記のタイガー同士のタッグマッチの他、こう書かれている(会見日付は大会1ヶ月半前の8月27日)。「▽天龍源一郎vs未定、▽異種格闘技~藤原喜明vs北尾光司(特別レフェリー、アントニオ猪木)」。

 結局、当日のカードは、天龍と北尾のタッグマッチと、藤原vsタイガーキングになっていたが(つまりタイガーキングは1日2試合をこなした)、特別レフェリーに猪木など、相当大きく出た打ち出しである(因みに当日の猪木は、無効試合に終わった藤原vsタイガーの直後に登場。1分の延長戦を求め、去って行った)、タイガーのタッグマッチも、「頼めば大丈夫だろう」的な感覚だった可能性はあろう。

 そして、くり返すように、当日、試合のあった全日本が応えたのが、この時、デビューして1年3ヵ月目だった金丸義信の派遣だったのである。なお、他の若手として、志賀賢太郎やマウナケア・モスマン(太陽ケア)もいたが、金丸が最もキャリアが浅かった(※翌年3月に森嶋猛がデビュー)。

 しかし、2代目タイガーマスクとなった金丸は躍動。入場時、コーナートップに立ったかと思うと、4人のうちで最初に空中殺法を見せ(ブファドーラ)、4代目タイガーには背面にミサイルキックも。実はこの時の金丸は、腰を怪我しており、そもそも巡業には参加せず。とはいえ、道場で、タイガーマスクにふさわしき動きが出来るよう、研鑽に励んでいた。

 決戦の前日には、巡業先の三沢から電話が。こう言われたという。「思い切ってやって来い!」

 さらに、試合直前には、嬉しい出来事が。この日、実況席に座ったのは、往年の『全日本プロレス中継』の名調子で知られる若林健治アナ。ラジオ日本に出向中だったが起用された同氏は、場内アナウンスで、三沢が熊本での試合で欠場する旨を述べ、続けてこう言ったのだ。「三沢選手から、メッセージを預かっております。皆さまに宜しくと。そして今日は、三沢選手がマスクを被っていた時よりも素質があると言われる、金丸選手がマスクを被ります!」

 その後、金丸がジュニア界を代表する選手になったことについては、付言の要はないだろう。

 来たる2月4日、誰が中身を務めるかはわからない。しかし、2代目タイガーマスクに、何らかのゆかりがある選手であって欲しいというところが衆目の本音だろうし、何より同大会のプロデューサーは和田京平。その期待は十二分に感知していることと思う。

 因みに、金丸はこの1997年の2代目タイガーへの代役変身の際、そのためだけにコスチュームを新調している。黄色を基調とした通常の虎仮面より色が濃く、全体的にオレンジ色と言っていい覆面だった。

 限定とは言え、新たなタイガーマスクが生まれるのか、それとも、かつてのオレンジ色の仮面が23年ぶりに陽の目を見るのか?当日を楽しみにしたい。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

コメント

    まだコメントはありません。

おすすめ記事

新しいコメントを投稿する

 [PCから画像ファイルをアップロード]

関連付けられたタグ

なし
[タグを付ける]

<< 一覧に戻る