2020/11/23 11:36

旗揚げ2戦目で使用のアノ団体!女子プロレスで2度メインを張った黄金対決!遂にスターダムが初進出!『プロレスと日本武道館』特集!

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来年3月3日、スターダムが日本武道館初進出!


 昭和の時代を生き抜いた大先輩記者&ライターの方々の話を聞いて羨ましく思うことの一つが、『大入り袋』の話である。客がよく入った際に、そのお祝いとして関係者各位に配られるものだが、昭和のそれは、まあ、とにかく羽振りが良かったようだ。特に後楽園ホールでおこなわれた新日本プロレスの新春興行など、年賀の意味もあるのだろうが、記者には「5000円から1万円」配られたという。余計かも知れないが、この金額は、実際リングで戦った選手たちが貰う大入り袋の金額より高かったとか。当時の新日本プロレスが、いかにマスコミの筆致を気にかけ、重要視していたかの証左かも知れない。

 さて、時代は平成へと変わり、そして、今世紀に突入。そういった幸甚には全くあずかってない筆者だったが、一度だけ、この『大入り袋』を貰った経験がある。それは、2012年8月18日のこと。この日、DDTが興行の成功を祝し、マスコミに大入り袋を配ったのだ(中身は500円)。会場は日本武道館。動員は主催者発表で10,124人(超満員)。唯一の経験だから記憶にあるのは事実なのだが、実は、これとあいまって、印象的なことがあった。それは、自身の出場した第6試合(vs鈴木みのる)を終え、同袋をマスコミに配り終えた後の、高木三四郎社長のアジテーションだった。

「この2012年、日本武道館で興行が出来たのはウチだけです。ウチの試合は、寝ている客もいなければ、トイレに人が集まる試合もない。業界全体が、より良いものを産み出して行く努力というか、もう少しそういったことを考えてみていいんじゃないかな?」

 確かに、その後を見てみても、日本武道館大会が出来たのは、新日本プロレスと、引退興行をおこなった小橋建太のみであった(2013年5月11日。主催はノアではなく、『小橋建太引退記念試合実行委員会』)。

 11月17日、朗報が入った。スターダムの日本武道館大会初進出が発表されたのだ。期日は来年3月3日。女子プロレス団体としては1997年8月に全日本女子プロレスが開催して以来、実に24年振りの快挙。大会タイトルとなる『ひな祭り ALLSTAR DREAM CINDERELLA』宜しく、業界を明るく盛り上げるビッグイベントとして期待がかかろう。

 今回の当欄は、そんな、実はなかなか開催までは難しい、プロレスにおける日本武道館大会を特集してみたい。

「1年以上の実績がないと借りられない」はウソ?


 日本武道館は、もともと文部省の主管する財団法人。東京オリンピック開幕直前の、1964年9月に完成し、柔道場として使われた。収容人数は、公式には14,000人。上から見て八角形なのは法隆寺の夢殿を模したもの。上部に行くに従い、なだらかな曲線を描く屋根は富士山の稜線を表現したもの、などなどのトリビアはさておき、本来の目的である武道場以外にも、コンサートやそれこそプロレスに使われて来た会場なのは周知の通り。プロレスでの使用については、例えば著名なインターネット百科事典サイトには、団体が1年以上経営・存続されていることが条件の一つ、とあるが、筆者が以前取材したところ、そういった定款は、別に無いようだ(※コンサートに対する定款もないくらいなので)。事実、ZERO-ONEは旗揚げ2戦目で同所で興行(メインは三沢&力皇vs小川直也&村上和成)。また、長州力が率いたジャパンプロレスは、旗揚げから7ヶ月で日本武道館大会を主催している(1985年6月21日)。それよりも取材を通じて、何より重要とされていると思わせたのが、『マスコミによる後援』。そう、プロレス団体は、後援にマスコミ(それもしっかりとした放映、報道実績のあるもの)が入っていなければ、借りられないものなのである。因みに先述のDDTは、ラジオ局・ニッポン放送の後援を得て、開催にこぎつけた。これは、そもそも武道館の初代会長が、読売新聞社社主の正力松太郎氏であったことの影響もあろう。伝説化されているビートルズの日本公演も、もちろん日本テレビでの放送であった。いきおい、プロレスでの初使用も、同局がレギュラー放映していた、日本プロレスの大会であった。

新日本は、あの企画の第1弾で初使用!


 カードはジャイアント馬場vsフリッツ・フォン・エリック(1966年12月3日)。“鉄の爪”の異名で知られるエリックは当時、初来日の、いわば“まだ見ぬ強豪”。大会場の使用、及び、大物の招聘に日本プロレスが踏み切ったのは、この年の10月にアントニオ猪木が新団体・東京プロレスを旗揚げしたため。ライバル団体が出来、老舗としては格の違いを見せつける必要があったのだ。果たして、大会は前夜から当日券目当てで徹夜組が並ぶほどの盛り上がりとなり、チケットは全て完売。大成功となり、また、日本武道館がプロレスに使用される嚆矢となったのだった。

 以降、団体ごとの初使用の歴史を見て行くと、全日本プロレスは1975年12月11日に初使用。大会名は『力道山十三回忌追善特別大試合』で、主催は力道山の直系である百田家とされていたが、全日本プロレス史にはこの大会がシリーズの一環として組み込まれており、全日本プロレスによる初使用と見て良いだろう。メインは馬場、デストロイヤーvsドリー・ファンク・ジュニア、鶴田であった。対する新日本プロレスは、1976年2月6日、猪木vs柔道家・ウィレム・ルスカで初使用。言わずと知れた初の異種格闘技戦である。当時のパンフレットにはこんな一節が。『大正10年、当時、太平洋岸でナンバー・ワンの実力を誇示したエド・サンテル(米国)が来日、講道館を破門された庄司彦雄4段と東京・靖国神社相撲場で他流試合を行った。(中略)今それが型を逆に55年後に再現する。場所はくしくも目と鼻の先の日本武道館』……。まさかその大正時代の一戦があったからの近場の使用でもないだろうが、箔をつけるにはもってこいの会場だったといえよう。

 ところで、件の『力道山十三回忌追善特別大試合』の同日、新日本プロレスは蔵前国技館で興行。メインは猪木vsビル・ロビンソンだったが、これもあり、当日、力道山の追善興行に出られない猪木が、当時、随分バッシングされたという事実がある。そんな因縁もあり、後年、この力道山追善興行の3階席が空いている写真を見た猪木が、「客、入ってないじゃん」と一笑にふしたという逸話も伝わる。ところが、これが少々、笑えない側面もあるのである。実は、日本武道館は札止めにするのが非常に難しい会場でもあったのだ。

平成の武道館初使用は、プロレス!


 今では世紀の一戦とされる猪木vsモハメッド・アリ(1976年6月26日)ですら札止めにならず(主催者発表は14,500人の超満員)。これについては当時の営業だったO氏の、こんな述懐がある。「安い席は埋まったけど、高額の中ほどの席が埋まらなかった印象。というか、アリ側との交渉に時間を取られて、こちらも、チケットを売る余裕がまるでなかった」。

 最初の馬場vsエリックから、次に掛け値なしの札止めになったのは、その13年後。東京スポーツ主催による『夢のオールスター戦』(1979年8月26日)。動員は16,500人で、馬場vsエリックの際は札止めという呼称がなかったゆえ(因みにこちらの動員発表は12,000人)、これがプロレス界では初の札止めとなる。この後も、新日本も全日本も日本武道館を使用することはあったが、どちらかというと、両国国技館の前身会場と言っていい蔵前国技館の使用が増えていった。数字的に単純にみても、4,000人分ほど武道館の方が器が大きく、やはり難儀な部分もあったのか。

 しかし、1980年代後半になると、全日本プロレスが日本武道館をビッグマッチの常打ち会場に。これは角界をトラブルの末に離れた元横綱の輪島大士が入団したことで、両国国技館側の顔色を伺わねばならなくなったという背景があった。その全日本は、1987年の天龍源一郎による『天龍革命』から徐々に観客動員が増加。そして1990年3月6日の大会で遂に札止め発表(15,900人。メインは天龍&ハンセンvsスティーブ・ウィリアムス&テリー・ゴディ)。以降、全日本プロレスは日本武道館における、超満員(もしくは札止め)の連続興行記録を作ることになっていった。

 メジャー2団体以降で武道館を使用したのは、先ず第二次UWF(1989年1月10日)。日付に注目してほしいが、昭和64年は1989年の1月7日まで。つまり、こちらは、平成初のプロレスのビッグマッチに。しかも、そればかりか、昭和天皇の崩御により、1月7、8、9日は日本武道館の使用が自粛。つまり、この日のUWFのプロレスは、平成最初の、日本武道館を使用したイベントとなったのだった。なお、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだったUWFだけに、この日の日本武道館大会は、業界で初めて、クローズド・サーキットされた(メインは前田vs高田)。第二次UWFの後発団体のリングス、UWFインターナショナルも、それぞれ日本武道館を適宜使用。リングスはWOWOWの全面バックアップでの実現だったが、UWFインターにはTBSテレビがついた。初使用は1992年10月23日の高田延彦vs北尾光司で、こちらはTBSテレビで、後日、地上波中継された。その他、パンクラスやWAR(初使用のメインは天龍vs橋本)、もちろんノアも興行をおこなっている。こちらは旗揚げ11か月目での初使用で、メインは三沢vs秋山であった。

 女子プロレスで使用した団体は、全日本女子プロレスしかなく、初使用は1977年11月1日。カードは、人気絶頂だったビューティー・ペア(ジャッキー佐藤&マキ上田)の、初のパートナー同士の一騎打ち。以降、70年代の全日本女子プロレスは1978年8月、1979年の2月と、計3回に渡り日本武道館を使用。1979年2月のメインはこれまたビューティー・ペア対決で、しかも敗者が引退するというルールだった(上田が負けて引退)。いずれにせよ、当時のビューティー・ペアの天井知らずの人気がわかろうものだろう。全日本女子プロレスは、80年代、そして90年代にも日本武道館を使用している。

 しかしである。男女合わせても、今までに挙げた団体のみしか、日本武道館を使えていないのである(他、東京スポーツ主催の『ALL TOGETHER』や、WWEの来日公演はあるが)。同じ大会場でも、両国国技館であれば、みちのくプロレスやバトラーツ、大日本プロレスやドラゴンゲート、WRESTLE-1、JWP、LLPWなども進出しているだけに、実現への敷居の高さが、自ずと感じられるかも知れない。

スターダムの挑戦に期待!


 新日本以外で、日本武道館の最後の使用となっているのが、冒頭にも挙げた小橋建太引退試合。同興行は凄まじい人気を呼び、チケットの発売が平日の火曜だったにも関わらず、即完売。「東京ドームでやればいいのに……」としていた友人の恨み節が忘れられないし、その気持ちは痛いほどわかった。だが、小橋と日本武道館ということで、今、筆者が思い起こせる出来事がある。今回の近著(※詳細は最後部付記)にも書かせて頂いたが、当日の午後1時半にタクシーで小橋は会場入り。関係者入口に入るため、同車が徐行した時のことだ。瞬間、小橋は、タクシーの窓を下げた。「あっ、小橋!」「小橋さん!」「頑張って下さい!」群がるファン。そして、そんなファンに、開いた窓から手を伸ばし、交流する小橋の姿があった。

 数々の名試合、そして、名場面を生んで来た日本武道館。こちらを舞台とする団体に、スターダムが名を連ねることとなる。プロレス界も、興行.的に、コロナ禍に泣いた本年。来年3月3日に刻まれるその大きな足跡が、更に輝く未来への第一歩となることを、願ってやまない。

※11月24日(火)より、新たな拙著『さよなら、プロレス(伝説の23人のレスラー、その引退の真実と最後の言葉)』(standards)が発売されます。ご興味のある方は、宜しくお願い申し上げます。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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