2020/10/26 10:37

ハンセン人気にマスカラスとばっちり!? 馬場元子も絶賛の名勝負!ジャイアント馬場23回忌追善興行のテーマに!馬場vsハンセンを振り返る!

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ハンセン人気にマスカラスとばっちり!? 馬場元子も絶賛の名勝負!ジャイアント馬場23回忌追善興行のテーマに!馬場vsハンセンを振り返る!
4.9

来年2月4日、後楽園ホールにて開催!


“幻に終わった夢の対決”“観たかった夢の対決”というのが、プロレスファンにはいくつもあるだろう。武藤vs三沢のシングル対決もそうだろうし、藤波vsジャンボ鶴田もそう。昨年BSの方で番組にもさせて頂いたが、橋本真也の復帰戦として予定されていた小橋建太戦もファンの夢をかき抱かせるマッチアップだった。しかし、プロレスファンのみならず、全世代の日本人にこのテーマでアンケートを取れば、1位になるのは、その知名度からしても、やはり以下ではないだろうか。アントニオ猪木vsジャイアント馬場である。互いに、現在も続く2大メジャー団体、新日本プロレスと全日本プロレスを率い、その頭領として君臨していたという背景もある。本名で戦っていた若手時代はいざ知らず、団体を統べてからは、ほぼ実現不可能だからこそ、両団体のファンの妄想も高まった。これを受け、『激突!馬場派VS猪木派』(群雄社出版・1983年)なんて書籍も出たくらいである。

 もちろん、どちらが強いかなど、戦ってみなければわからない。ところがである。この難題に、一つの答えを出したレスラーがいた。以下の言葉で。

「馬場の方が、猪木より、少し強いようだ」

 発言者はスタン・ハンセン。1982年2月4日、その馬場とのシングル初対決を終えて半年後の発言だった。

 あれから38年経った本年10月22日、ジャイアント馬場さんの『23回忌追善興行』の開催が発表された。期日は来年の2月4日。場所は後楽園ホール。そして、テーマは『馬場vsハンセン記念日』。そう、日付がまさに、前出の2人の初対決と同日なのである。

 報道によれば、新日本、全日本、ノアの3団体が協力する見込みの同大会。いやがおうにも、この時の『馬場vsハンセン』の価値がクローズアップされるところだろう。

 今回の当欄は、その38年前の初対決の模様を仔細に描出するとともに、その意義を改めて検証。あわせて、後年に渡る馬場とハンセン、2人の友情について触れてみたい。

ハンセン人気で超満員続出の全日本


 古い話で恐縮だが、同一戦の価値は、それまでの5年間(1977年~1981年)、ハンセンがまさに全日本プロレスの対抗団体、新日本プロレスにおいて、エース外国人レスラーであったことにあった。猪木とのシングル通算戦績は、全26戦3勝18敗4分け1無効試合で、3勝もリングアウトが2つに反則が1つ。だが、リングアウト勝ちの一つに、当時、猪木の虎の子タイトルとされたNWFヘビー級選手権を奪取した試合が含まれており、これがハンセンのキャリアを燦然と輝くものにさせている。何故なら、同タイトルを猪木が初奪取してから1981年に封印するまで、これを一旦でも奪えたのは、タイガー・ジェット・シンとこのハンセンの2人しかいなかったのである。つまり、同列の表現を許させて頂ければ、ハンセンはシンと並ぶ、新日本の2大外国人エースなのだった。

 さて、ハンセンはその1981年末をメドに、全日本プロレスに移籍。翌年1月15日から全日本プロレスに参戦となったが、そもそも人気があったところに、別団体の全日本プロレスに登場したわけだから、ファンも注目しないわけがない。移籍初戦となる千葉県木更津市倉形スポーツ会館の動員は、なんと6,700人(超満員)。主催者発表ならではの数字の誇大さはあるにせよ、要するによく客が入ったということだろう。その後も、全日本での“初ハンセン”を見ようというファンで、会場は大賑わい。2月1日、京都正武館大会では、余りにもチケットが売れすぎ、立ち見席を買った客が立てるスペースがなく、やむをえず、リング下に敷くブルーシート上を開放。7,000円の特別リングサイド席を購入した客の前に、2,000円の立ち見席を買った客が体育座りで座るという、珍妙な状態になった。主催者発表で札止め2,800人の動員。実のところ、ハンセンの初来日は1975年9月の全日本プロレスだったが、その後、全日本には呼ばれず。新日本を経ての復帰でこれだけの事態を起こすのだから、その間の躍進と認知が如何に凄まじかったが理解出来よう。

 なお、このシリーズにはミル・マスカラスも参戦していたのだが、前出の京都大会では、ゴング前にファンサービスでおこなう、オーバーマスクの客席への投げ入れは無し。なぜって、立錐の余地なく、また、興奮する観客に入場時、オーバーマスクを剥ぎ取られてしまっていたのだ(※因みにマントもボロボロにされた)。プライドの高いマスカラスの気持ち、いかばかりかと思うが、このシリーズは衆目がハンセンに向いていたと言って過言ではない。

 そして、こんな趨勢が、2月4日、東京体育館における馬場とハンセンの初の一騎打ちの会場の雰囲気も左右することになった。

健在ぶり示した馬場


「今日の観客発表は、『10,500人、超満員。札止め状態』ということにしておいて下さいよ」試合前、マスコミ席を全日本プロレスのY渉外部長が訪れ、ニコニコ顔で言ったという。決戦当日は雨だったが、それでも、外を見ると、まだ入場し切れてない客の、長い傘の列が200mほど続いていた。「指定席は昨日で売り切れ。当日券は500枚出しましたが、それもアッという間でしたから」とY部長。東京体育館がプロレスで札止めとなるのは、実に16年ぶり。1966年2月28日のジャイアント馬場vsルー・テーズ以来の快挙だったという。この7日前、ハンセンに去られた形の新日本プロレスが同じ東京体育館で興行を開催。しかもメインカードは、猪木vsブッチャー。しかし、動員は主催者発表で9,000人(満員)に終わった。興行上は明らかに全日本の勝利。関係者のホクホク顔も当然だろう。

 ところがである。会場の雰囲気がどうもおかしい。必ずしも温かな雰囲気ではないのである。それが決定的になったのは当日の第9試合、ミル・マスカラスvs天龍源一郎のIWA世界戦が終わり、セミファイナルの、AWA世界戦、ニック・ボックウィンクルvsジャンボ鶴田が始まるまでの猶予時間であった。

「早くやれよ!何してんだ!」「そうだそうだ!」「とっとと終わらせろよ!」etc、強烈な野次が飛んだ。由緒あるAWA世界戦なのにである。そう、一部の観客の目当ては、馬場vsハンセン、もっと言えば、ハンセンのみだったのだ。つまりそれは、普段、全日本プロレスを観ていない客層、いわば、新日本プロレスファンの流入を意味していた。となれば、ハンセンのファンはもちろん、もう一つの層がいることも言い切れる。猪木ファンだ。当時の情勢からすれば、それは、「アンチ・ジャイアント馬場」ファンとも言えた。

「はっきり言いましてね。全日本プロレスと新日本プロレスの勝負ということについては、すでに決着がついているんですよ」1982年初頭の、新日本プロレスの営業部長・新間寿氏の発言である。「昨年の新日本の試合数が196戦、全日本が168戦。テレビの視聴率は、我々が平均16.7%、『全日本プロレス中継』が平均9.4%。ましてや法人所得ランキングの『スポーツ・芸能プロ部門』で、われわれ新日本プロレスは8位です(※1980年度のデータ。因みに1位が読売興業。4位が日本相撲協会)。全日本さんの名前がありますか?」新間氏は得意げにニヤリと笑った。実際、ハンセンの移籍直後の闘いを報じる専門誌には、こんな見出しが。『ようやく全日本プロレスにも人気回復のきざしが!』(『月刊プロレス』1982年3月号)専門マスコミですら、新日本と全日本に、高低差をつけていたのだ。

 2月4日と言えば真冬。試合前のハンセンは、ズボンに手を入れ、寒がっていた。転じて、馬場は普段の倍以上の量の葉巻をゆくらしていたという。暖を取るためではない。明らかに落ち着きがなかった。入場時、サイドリポーターの「ラリアット対策は?」の問いに、馬場は、「考えたってしょうがないんで」と答えた。ゴング前、場内から沸き起こる「ハンセン」コール。「馬場」コールを完全に凌駕していた。もはや、一部という数ではないだろう、この日、東京体育館に詰めかけた新日本プロレスファンが観たかったもの、それは、ハンセンが馬場を倒す姿だった。

 だが、馬場もいつもとは違っていた。入場時、リング下でガウンを脱いだ。格式を重んじる馬場らしからぬ行動。さらに、その場でピョンピョンと飛んだ。リングインしても同じ動作を繰り返し、拳にハァーっと息を吹きかける。ハンセン以上に、馬場の方が昂っていた。

 試合は大激戦となった。それも、腕への関節技を中心に、馬場がハンセンを押す形で。しかし、ハンセンのラリアットさえ決まれば、それ一発での逆転勝利もあるはずと、新日本ファンは思ったことだろう。その瞬間が、試合終盤に訪れる。ロープに振られ、戻って来る馬場に、ラリアットがヒット。だが、馬場がロープから戻って来るのが遅かったのか、技はリング中央では決まらず、ハンセンがより走り込む形で、ロープ際で決まった。結果、馬場はフォール負けの難を逃れた。

 実は、ハンセンが新日本から移籍してからの2人の対決は、これが初めてではなかった。シングルの約2週間前、1月17日の深谷市民体育館大会で、6人タッグで激突。ノーテレビ試合であり、試合は、前日、急遽決定したものだった。それも、馬場自身の希望によるものだったという。同試合は3本勝負。3本目に、ハンセンのラリアットが馬場に炸裂した。だが、この際、馬場はロープから戻って来る歩調を緩めた。結果、ロープ際近くに倒れた馬場は、フォール負けの難を逃れた。それは、このシングル対決と、まるで同じシーン。馬場は、何も考えてなかったわけではない。既にかわし方をこの時試していたのだ。

 最後は結局、ハンセンの暴走にのる形で、両者反則という裁定。試合後、馬場は言った。「何しろ気合が入ったよ。デビュー戦と同じくらい興奮した。自分としては気持ちのいい試合だったし、暴走での反則がなければ、あと15分はやりたかった」

 観戦した馬場元子が、「他の選手はハンセンに対して、力で勝負しようとしてた。でも、馬場さんはとにかく密着して、ハンセンのパワーを出させないようにしてた。やっぱり馬場さんは頭がいいなあって」と感想を残したのは、元子さん追悼の際の本欄にも書いた通り。ハンセンはこの半年後、インタビューで、「馬場の方が、猪木より、少し強いようだ」とした。忖度もあったかも知れない。既に外国人のトップであるハンセンを叩き潰せば良かった馬場と、長きの抗争でハンセンの良さを引き立たせる要もあろう猪木の違いもあったかも知れない。だが、少なくとも、初対決での内容の良さとあいまり、馬場の評価がグンと上がったのは確かだった。気づけば全日本の観客動員は、以降も上昇。そして、この時の馬場vsハンセンは、この年の『プロレス大賞』ベストバウトに選出されたのだった。「ジャイアント馬場健在を印象付けた」との講評とともに。

馬場の三回忌興行で引退したハンセン


 実は移籍に当たり、ハンセンは馬場からこう言われていたという。「ユーの今までのファイトを、全日本に持ち込んでほしい」。確かにそれまではクラシカルな攻防が多かった全日本プロレス。しかし、ハンセンの持ち込んだハード・ファイトは時流にマッチした。後進の鶴田、天龍がこれに応じ、さらに逞しく躍動。旧知の親友、ブルーザー・ブロディとのタッグも大人気に。天龍源一郎自身、「ハンセンが来てから、全日本のリング上は変わり始めた」と発言している。そのハンセンが90年代になっても、まさに彼本来の叩き潰すプロレスを堅持し、三沢、川田、小橋らの壁であり続けたのは読者もご存知の通りだ。

 結局、2001年1月28日、東京ドームで行われた『ジャイアント馬場三回忌記念興行』での引退まで、全日本プロレス一筋に上がり続けたハンセン。馬場も、「ファイトマネーの増減により、やる気に差が出る選手と違って、常に全力を尽くしてくれる選手」と、ハンセンを厚遇した。東京ドーム大会の5日前、行われた引退会見。集まった多数の報道陣を見て、「確かに僕は引退するけれど……」と、ハンセンは戸惑ったように言った。そして、こんな風に続けた。「今回は、馬場さんの三回忌興行なんだ。みんな、それを忘れないでくれよ」。

 23回忌興行主催のH.J.T.Productionの緒方公俊代表取締役によれば、馬場の名を冠した興行は、今回で最後とか。それを考えれば、やはりその場に一番ふさわしい存命人物は、ハンセンだと思われる。2人のリング上での邂逅が、その後の同団体をより良く支えたことを銘記し、当日を迎えたい。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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