2020/9/7 12:25

三沢が記者と絶交の事件!一般マスコミの攻勢に、馬場唯一の激怒!場違い質問に長州もキレる寸前!『プロレスラーvs報道陣』を考える

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三沢が記者と絶交の事件!一般マスコミの攻勢に、馬場唯一の激怒!場違い質問に長州もキレる寸前!『プロレスラーvs報道陣』を考える
4.0

CM発表会で、長州に場違いな質問が続出。


「撮ってんじゃねえ!テメー、殺すぞ!」怒号が飛んだ。2011年8月7日、ゼロワン・後楽園ホール大会でのことである。もっとも、ファンの方は知るまい。報道陣しか立ち入ることの出来ない、東側のコメントルームでのことであった。言ったのは、現在、市会議員も務める澤田敦士(写真)。言われたのは、何を隠そう、取材中の筆者であった。

 マスコミにとってはコメントルームでの撮影も大事な仕事のため、(えっ?! 何で?)と思ったのだが、当時の澤田選手は大ヒール。試合でもゼロワンファンたちに大ブーイングを浴び、さらに、後から他の記者に聞いたところでは、退場時に、興奮したファンと、つかみ合い寸前の言い争いになっていたらしいのだ。そのテンションのまま、コメントルームに帰還。いきおい、冒頭の怒声となってしまったのだった(※直後に写真撮影は可となった)。レスラーとて人間。取材の難しさを感じさせた出来事だった。

 9月1日、レスラーとマスコミの間で、“事件”が勃発した。長州力が、チョコレート菓子「ブラックサンダー」のリニューアル大使として、新しいCMの発表会に、長州小力とともに登壇。ところが報道陣が、近年、バラエティ番組への出演も多い長州に対し、微妙な質問を連発し始めたのだ。

――「プロレスをするのと、CMを撮るのと、どっちが大変ですかね?」

長州「どっちも大変ですよ。どういう意味で聞いてるかわからないけど……」

 さらに、「隣にいる小力さんと自分が、似てると思いますか?」「小力さんは、色が白いから、“ホワイトサンダー”の方が良いのでは?」などなど、迷走気味の質問は続き、遂には、以下の質問に対し、長州は不快感をあらわに。

――「同じ山口県出身として、安倍総理の退陣についてはいかがでしたか?サンダー級の衝撃がありましたが?」

長州「大変、立派な総理だと思いますよ。その質問が、本当に関係あるのかな?質問する方もオカシイんじゃない?」

 この会見においては、『CMに関係ないことは、聞いてはいけない』旨を、予め明文化。主催者サイドからも、それは報道陣に通達されていたはずなのだが。

 続く、「最近、キレたことは?」の質問に、「今かも」と返す長州。さらに悪いことに、後を受けた女性記者が、数ヶ月前、「ハッシュドタグ」などの誤読で話題となった、長州のTwitterでの発言を持ち出す。空気を変えようとしたのかも知れないが、その質問内容が、「ハッシュドタグの、正しい読み方は伝わりましたか?」

長州「今、それを僕に言えって言うんですか?答えたくありません」

――「キレちゃいましたか?」

長州「『キレてないですよ』と言わせたかったのかも知れないが、あなた、何が言いたいの?」

 ここで質疑応答は終了。特にTwitterの誤読の部分については、商品と関係ないばかりか、(聞き方のマズさもあるとは言え、)いわば長州個人を蔑む方向性のもので、長州でなくとも、よく怒り出さなかったものだと冷や冷やしてしまう。大切なのは、今回が特例ということではなく、一般マスコミとのやりとりにおいて、プロレスラーのプライドなり気持ちが、軽視されがちな瞬間があるという事実に思う。

 今週の当欄では、そんなプロレスラーvs、主に一般マスコミ間での、質疑応答での軋轢の過去をご紹介。上記の件や歴史を回顧し、今一度、その関係性の改善について考えてみたい。

放送事故級の無言劇も


 8年ほど前だったか、某キー局からご連絡を頂いたことがあった。各種のマニアがその魅力を語り合う番組に、出てほしいという要件だった。(記者のみのスタンスでなく、一種のマニアとしても)偉大な諸先輩方がいる中でのご指名に居住まいを正しつつ、話を聞いてみると、プロレスとボクシングのそれぞれの代表的なマニアが出演。魅力を語り合い、どちらが優れているかをMCが決めるという趣向であった。申し訳ないが、お断わりさせて頂いた。そもそもボクシングも筆者は好きであるし、MCは劇団ひとりさんに土田晃之さん。芸人としては大変素晴らしい方々だという気持ちは今持って変わらないが、要するにバラエティ番組だったのである。プロレスがただ、面白おかしく扱われてしまう恐れがあったし、それを収録内に是正出来る能力が、筆者サイドにあるとも思えなかったのだった。げに、かようなバラエティ番組における選手側と放送サイドの温度差は、いかんともし難いものがある。

「試合のことじゃなければ、もういいんだよ!」その吐き捨てて、バラエティ番組の収録を中断(終了)させてしまったのは、川田利明。バラエティ番組は、『ウッチャンナンチャンのシャララ』(日本テレビ)。撮影日付は1991年10月15日。場所はその日、試合がおこなわれる後楽園ホール。同番組で、『全日本プロレスに突入!』という企画が打たれたのだ。『全日本プロレス中継』実況アナウンサーの福沢朗がマイクを持ち、それにウッチャンナンチャンが絡むという手法をとったが、鷹揚としたジャンボ鶴田や百田光雄がウッチャンナンチャンと絶妙な絡みを見せるも、川田は最初から不機嫌。「バラエティ番組とか見ます?」という福沢の振りには「たまには見ますよ」と返すも、全身から近寄り難いオーラを発しており、空気もヒンヤリ。川田の方から前出の言葉を投げかけ、即時終了となった。後年、『ハッスル』のリングで江頭2:50と絡むなど、バラエティへの順応を見事に見せていた川田を考えると意外だが、この当時の川田は、無口で無骨な立ち位置。ましてや試合前のインタビューということに、演出上の問題もあったように思う。因みにこの収録にエース・三沢光晴は不参加。前日、鶴田の手厳しい攻めで、鼻骨を骨折したのだ。ところが、試合開始の午後6時半になると、三沢は来場。メインを戦い抜いた。当時は「バラエティには出れなくとも、試合に穴は開けられない」という三沢のプロ根性にいたく感動したものだが、今考えると、「バラエティの収録に出て、鼻の怪我を変な風にいじられたくない」という気持ちもあったかも知れない。

 生放送中、全ての問いかけに無言を貫き、放送事故級の惨事を引き起こしたのが、その川田の師匠・天龍源一郎。1985年5月29日、往年の深夜バラエティ『11PM』で、抗争中だった阿修羅原と、別スタジオを繋ぎ、舌戦を展開するという企画だったが、天龍は、何を振られても「……」。もちろん原が挑発してもである。(何か原に対する深意があるのでは?)と当時は思ったものだが、後に天龍さん自身にうかがうと、内実は、これもやはり冒頭の長州を思わせるものだった。放送前、『11PM』の司会者に、さんざんおちょくられたのだという。「『プロレスっていい加減でしょ?』『やらせなんでしょ?』そんな風に小馬鹿にしてきた。『だったら喋らねえよ』と……」(天龍)。

 月並みかもだが、どんな仕事でも、第一人者は身命を賭けて取り組んでいるものであり、選手側に何の問題もないのであれば、取材者は先ず、その姿勢に寄り添う気持ちが大事だということだろう。

 対して、一般マスコミ相手にも、先ず怒らなかったのがアントニオ猪木(※国会議員時代除く)。こちらも本当は、「テレビに出演して、『プロレスは八百長でしょ』みたく言われる度に、心の中で、『ぶっ殺してやる』と思ってた(笑)」そうだが、表に出さないのは流石である。

 1986年の5月、不倫現場を写真週刊誌に報じられた時のことだ。翌日から、芸能マスコミが多数会場に駆け付けた。その際、猪木は、東京スポーツや『週刊プロレス』『週刊ゴング』の、いわゆる専門マスコミに、こう言った。

「いつもは敵だと思っていた皆さんが、急に味方に見えて来ました(笑)」

 今も心に残る、非常に好きなやりとりなのだが、読み返すと、プロレスと、一般マスコミとの、埋まらぬ溝も透けて見える気もする。

専門紙誌による舌禍も。


 さて、(報道も含み)舌禍を引き起こすのは、何も一般マスコミだけではない。当然、専門マスコミにもこういった事態はあり得る。

 有名なのは、1992年8月に、三沢光晴が三冠王座を初奪取した数日後に出た、某スポーツ紙の記事。「新日本の武藤とやるしかない。どんな奴でも叩きのめすのが、王者の責務だ」と三沢が言ったように書かれていたのだ。当時、完全鎖国状態だった全日本プロレスの王者が、こういった発言をすることは考えられず、いわゆるマニア層なら、「大袈裟に書かれたんだろう」と済ませる記事だったが、当の三沢は大激怒。「あんなこと、一言も言ってない!武藤選手にも失礼。その夜は悔しくて眠れなかった」とし、結婚式にも互いを呼び合う仲だった、書いた記者と絶交した。最後まで旧交は戻らなかった。筋の通らぬことは決して許さない三沢らしさを感じた。

 マスコミに対しては非常に協力的な大仁田厚が専門誌記者と一触即発となったのは、1992年5月の兵庫県ニチイ三田店駐車場特設リング大会でのこと。自団体FMWにて、リング四方のロープを燃やして取り囲む『ファイヤーデスマッチ』を敢行。ところがロープが数メートルの火柱を上げ、まさに炎上。悪いことに四方が全てこの状態だったため、開始2分もせず、全選手がリングから逃亡。周囲を炎に囲まれていたため、リング内が酸欠状態になったのだ。そこを突いた記者が試合後、問う。「計算違いがあったのでは?」瞬間、大仁田は声を荒げた。「計算違い?そんなものあるか、デスマッチに!」

 聞いた記者も凄いと思う反面、大仁田の気持ちも分かろうもの。ただ、この時期、専門誌である『週刊P誌』は、どうも純然たる報道をするというより、選手や団体を批評するスタンスにバイアスが傾いており(それによる良い効果もあったろうが)、同試合の報道に関しては、一種の偽悪さを感じたのも事実である。この発言は動画の類で残っているが、大仁田の言葉尻に、一種のもの悲しさが含まれているように感じたことも、私見ながら付記しておきたい。

苦悩の山本リングアナと馬場の涙


 そして、一般マスコミとのやり取りとして、その是非はともかく、忘れえぬものが2つある。

 1つは1997年8月下旬のこと。JWP女子プロレスに、一般マスコミが多数詰めかけた。プラム麻里子さんが、リング禍により逝去したのだ(尾崎魔弓のタイガードライバーにより昏睡状態となり、永眠)。質問に丁寧に答える山本雅俊リングアナ。「(逝去した試合は、)通常のプロレスの範囲を超える試合ではなかったと思います」すると、こんな質問が飛んだのだ。「通常のプロレスの範囲というのは、どういうことでしょうか?」

 答えに詰まる山本リングアナ。筆者はこの時、現場にはいなかった。ただ、質問したのが一般マスコミであろうという思い込みは、今もって変わらないし、今後も変わることはないだろう。個人的な感懐を書くのも非常に恐縮なのだが、猛烈に悔しい気持ちがしたのを覚えている。その直後の試合で、尾崎魔弓は、やはりタイガードライバーを披露。一言では言えない凄みと、(正しい言葉の使い方か分からないが、)激しい感動を感じたことも、補足させて頂ければ幸いだ。

 もう一つは、1987年の11月の全日本プロレスの会場でのこと。遠征のため、南アフリカ行きの旅客機に乗ってプロレスラー、ハル薗田が、同行した妻と、その旅客機墜落により客死。総帥・ジャイアント馬場のもとに、当然のように一般マスコミが押し寄せたのである。この時点では生死は不明だったが、愛称『ゴリ』として知られる薗田の人となり、思い出について、矢継ぎ早に質問が飛ぶ。馬場がテレビカメラの撮る前で声を荒げたのは、この時が唯一だったのではないか。

「ゴリのことを知らん奴に、あれこれ言われる筋合いはないんだよ!」

 薗田は帰らず、半月後の後楽園ホール大会で追悼セレモニーがおこなわれた。「ゴリくん、君はこれからも、永遠に全日本プロレスの一員であります」と遺影に語り掛ける馬場。馬場が公に悲しみの涙を見せたのも、この時だけではなかったかと記憶する。

 ジャーナリズム精神は、確かに大事に思う。しかし、くり返すが、レスラーとて人の子。主旨を理解し、その気持ちに寄り添うことを前段とした取材やインタビューを今後も見られて行ければ幸いだ。自戒も込めて、心がけてもいきたい。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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