2020/8/16 10:22

初ベルトに奥さんから10万円の餞別!? タイトル初挑戦を観ていたファンから同王座奪取!YOSHI-HASHI初戴冠!遅咲きレスラー特集!

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初ベルトに奥さんから10万円の餞別!? タイトル初挑戦を観ていたファンから同王座奪取!YOSHI-HASHI初戴冠!遅咲きレスラー特集!
4.7

デビュー12年目にして、初タイトル奪取!


 昔から大人気の、新日本プロレス・後楽園ホール大会だが、何せブシロード体制からは鈴なりのフルハウス状態。それゆえ、マスコミ陣の席は、他団体に比べれば縮小気味。特にパソコンを使って即時の速報をしない記者は、ノート片手に入場口近辺に立っているか、同会場の階段に座る場合が多い。特に北側の雛壇席の右端の階段の場合が多いのだが、その場所にいると、当然、ファンの会話もよく聞こえて来る。2014年の6月のことだ。ファン2人の、こんな会話が聞こえて来た。「飯塚のが発売されるなんて珍しい」「YOSHI-HASHIのも」。気になり、視線をやると、パンフレットのグッズ紹介ページを見ての話であった。同年5月に、所属20選手のスマホケースが一斉に発売。棚橋、中邑、オカダはもちろんだが、その中に、飯塚やYOSHI-HASHI仕様のそれも入っていたのだ。前述のファンのやりとりは、当時の2人がグッズ展開される機会自体が珍しいことを物語っていた。飯塚は完全なヒール道を邁進していたので、すべからくという感じもあったが、YOSHI-HASHIについてはオカダと同時の凱旋帰国を取材していたこともあり、複雑な心境が残った。

 8月9日、感動的な王座戴冠劇が訪れた。後楽園ホール大会でのトーナメントを制した後藤洋央紀&石井智宏&YOSHI-HASHI組が、NEVER無差別級6人タッグ王座を獲得。中でもYOSHI-HASHIはデビュー12年目にして、初の王座戴冠。決勝で相対したオカダにベルトを巻かれると、喜びも爆発。ファンにマイクでこう呼びかけた。

「『物事が変わるのは一瞬』と、ずっと言ってきたけどね、全く変わらなかった。毎回変わってたらね、そんな人生楽しいことはないよ。なかなか上手く行かないからね、すごく楽しいと思うんだ(中略)。もしも、つまずいてもね、また立ち上がればいいんだよ。明日以降、俺も、そしてあなた方も、なにか大きく変わりますように!なにかが変わるとき、そう!物事が変わるのは一瞬だっ!」

 積年の感情が爆発した、心に響くマイクだった。YOSHI-HASHIについては、2016年7月の当欄で個人を特集。占い師に、「64歳まで運気が上がりっぱなしだけど、あなた自身は、絶対に欲を出しちゃ駄目。あなたのことは周りのみんなが助けてくれるから」と診られたという逸話を披露させて頂いたが、まさにその予言通りの戴冠劇でもあった。

 今回の当欄は、この感動的なドラマを経て、オーソドックスながら、『遅咲きレスラー特集』をお送りさせて頂ければ幸いだ。

遅咲きの先輩、石井もエール


 先ず、挙げられるのが、そのYOSHI-HASHIに試合後、以下のエールを送ったパートナー、石井智宏。「ここに来るまでさんざん、レスラー、マスコミ、ファンにいろいろ言われてきただろ?いいんだよ。何年かかろうが辿り着きゃいいんだよ。これからよ、今までいろいろ言ってきた野郎共をよ、黙らせるぐらいの試合をすればいいんだよ」そんな石井本人も、まさに遅咲きのレスラーだった。

 天龍源一郎率いるWARで1996年デビュー。当時は水色地にピンクのラインが入ったロングタイツで、美しいジャーマンスープレックスを得意にしていたが、同団体の解散後はインディー団体を流転。以前の拙著にも書かせて頂いたが、その時期に会い、調子を聞くと、「いやあ、全然もう、良くないことしかなくて(苦笑)」。(喋りたがってないな)と直感した。

 だが、その後、長州力率いるWJに合流。旗揚げ戦の第1試合で熱闘を展開し、徐々に現在に繋がるファイトスタイルに開眼。新日本プロレスに移籍後の2014年、NEVER無差別級王座を獲得。メジャー団体のシングル王座の初奪取と捉えれば、実に苦節18年の快挙であった。ただ、個人的には、2012年5月にIWGPインターコンチネンタル王座に挑戦し、敗退した後の一場面が印象深い。王者、後藤洋央紀がマイクで、「石井!オマエ最高だよ!」と叫ぶと、その声が、裏のコメントルームにいた石井まで聞こえて来たのである。ノーサイドの爽やかな雰囲気になるかと思いきや、瞬間、石井は憮然。「なんだよ、上から目線でもの言うんじゃねぇよ!いいか、必ずよ、必ず一つ一つ、リベンジ果たしてやるからよ。後藤にじゃねぇよ。プロレス界にリベンジしてやるよ!」としたのである。上記のYOSHI-HASHIへのエールに通底したものが感じられないだろうか。

 その石井とWJで一緒だった保永昇男レフェリーも、現役期は遅咲きとして有名。1991年に、『BEST OF THE SUPER Jr.』の前身である『TOP OF THE SUPER Jr.』を、決勝でライガーを下し、制覇。同時にタイトルもかけられており、第14代のIWGPジュニア王座にも君臨。デビュー11年目の快挙であった。当時、この結果は大番狂わせと言われており、勝利後は、保永が指を10本掲げるポーズも。本人にしては派手なアピールであり、「10年以上かかったぞ」という意味に捉えていたのだが、後年、インタビューでこの時の気持ちを問うと、意外な答えが。

「あの時は、最終的に4人が同点で並んでのトーナメントになったんだけど、嫁さんが会場に来ててね。『もし決勝に行ったとしても、ライガーなんかにあんたが勝てるわけない。10万円かけてもいい』って言ってたんだよ。だから、『10万はもらった』って、客席の嫁さんにアピールしたんだね」
 今も動画の類で観れるこのシーン。指を掲げる方向に、保永の奥さんがいたことになるわけだ。

遅咲きのIWGPヘビー級王者2人と言えば?


 新日本プロレスの至宝、IWGPヘビー級王座で言えば、遅咲きとされるのは真壁刀義。2010年、デビュー13年目にして初奪取。ただ、チャンスを貰えてなかったわけではない。例えば第3回のスーパーJカップ(2000年・みちのくプロレス主催)にエントリーされたり、2001年には長州と組んでIWGPタッグに挑戦(vs天山&小島)と、抜擢もあった。2003年には、“帝王”高山善廣と組み、小橋建太&本田多聞組の持つGHCタッグ王座に挑戦も。同時期、秋山準も、「あいつはいつもキャンキャン吠えてて、面白い」と注目を口にしている。だが、結果に結びつかなかった。加えて、IWGP王座奪取を感動的にしたのが、マスコミの評価。特に地方会場だと、試合前の各選手の練習が見られるのだが、一番最初に練習を始め、一番最後に終えるのは、ほぼ常に真壁だったのである(※00年代)。こういった努力を見ているマスコミの思いが、真壁の至宝奪取の際、報じる筆に出ていた印象があった。

 そして、真壁以上に遅咲きとされたのが2009年5月6日にIWGPヘビー級王座を初奪取した中西学。なんとデビュー17年目での快挙であった。中西自体は1999年8月に『G1 CLIMAX』を制覇し、ブレイクをしていたが、その2か月後の同王座挑戦は敗退。当時の関係者の、「チャンスは与えたんだけど、活かせなかったよなあ……」という言葉が蘇る。因みに中西のIWGPヘビー王座初挑戦は、デビュー6年目の1998年。これは何を隠そう。ファン時代の棚橋が、初めて彼女をプロレス観戦に連れて行った試合だったとか(※棚橋は当時、大学4年生)。中西は7分53秒で、王者スコット・ノートンに敗退。しかし、試合時間がいたずらに長くなく、まさに本人の特長であるパワーファイトで押しまくった内容に、筆者が後年、「あの日のメインは、短いけど、凝縮したいい試合でしたよね」とインタビューした棚橋に向けると、棚橋は一言。「いやあ、でもあれ、女性向けの試合じゃなかったですよね」これには筆者も返す言葉がなかった……。

 さて、中西のIWGP王座初奪取となった試合は、なんとその棚橋戦。初挑戦を客席で観ていたファンの持つ王座に挑戦するわけだから、どれほど中西に栄冠が巡って来なかったか、その時間の長さもわかろうもの。しかも、この試合、そもそもはノンタイトル戦の予定であった。ところが先立つ3日前の5月3日、後藤洋央紀を相手にIWGP王座を防衛した棚橋が、中西戦にベルトを賭けることを提言したのだった。

 降って沸いたチャンスに燃えた中西が、いわば金星を手にすると場内は大爆発。「中西学を今まで見捨てずにいて頂き、ありがとうございました!」としつつ、当時、交戦していたノアに話が及ぶと、「すいません、派手なことを言いたいんですけど、今チャンピオンになったばかりなんで。いつも気が早いことばっかで、失敗ばっかりしてるから」と言い、観客を爆笑させた中西であった。その傍ら、解説席で笑顔を見せた盟友・永田裕志と、涙を見せた山本小鉄の姿が、極めて印象的であった。

19年目で初ベルトのあのベテラン!


 上記を更に上回り、なんとデビュー19年目にメジャー団体王座を奪取したのが本間朋晃。2016年1月4日に、兄貴分・真壁とのコンビでIWGPタッグ王座を奪取。これには地元・山形のマスコミが歓喜。実は前年3月に『山形新聞』の取材を受け、その際、「夢は新日本でベルトを巻くことと、『やまがた特命観光・つや姫大使』に就任すること」と明言。しかも後者には取材の2ヶ月後に就任したため、残された夢はタイトル獲得だけになっていたのだ。同県内のフリーペーパー『やまコミ』のインタビューを受け、「19年目ですからねえ、遅咲きも遅咲き」と、笑顔を見せた。

 ところが、それ以上と言っていいのが、こちらも19年目で『世界ジュニア王座』初奪取の百田光雄。現在でも現役もためご存知の読者も多いだろう、力道山の遺児である。本間がIWGPタッグに先立ち、いわゆるインディー団体でのタイトル獲得歴ならある一方で、百田は、これが正真正銘の初タイトル。奪取したのは、1989年4月20日のことだったが、そもそも同王座への初挑戦自体が同じ年の2月25日だった。百田自体は、日本で初めてトペスイシーダを披露するなど、玄人好みのレスラーだったが、何せ前座時代が長く、付いた異名が(試合開始時間の)『6時半の男』。そんな雌伏の時を経ての同王座初挑戦は、入場曲にシルベスター・スタローン主演『ロッキー』のメインテーマを用い、ゴング直後には、なんとトペスイシーダ3連発!大舞台にかける意気込みが現れつつ、この連発で足を負傷してしまい、負けに繋がってしまったのも、何とも胸に迫るものがあった。2ヶ月後の嬉しい初奪取時には、「オヤジみたいに、チャンピオンベルトが巻ける日が俺に来るなんて、夢を見てるみたい……」と語った。

 本間は、前出の『やまコミ』で、こう語っている。

「子どもたちに言いたいのは、夢は必ず叶うものじゃないけど、夢は持たないとつまらない、夢を持ち続けることに意味があるんだと」。

 冒頭のYOSHI-HASHI同様、苦闘の日々を歩んで来たからこそ言える一言。彼らの鈍くとも重い輝きこそ、人々の心を照らすよすがになると信じて止まない。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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