2020/7/19 10:52

えっ?『笑点』のマクラに?北斗晶もお気に入り!新日本登場&BULLET CLUB入り!ディック東郷特集!

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えっ?『笑点』のマクラに?北斗晶もお気に入り!新日本登場&BULLET CLUB入り!ディック東郷特集!
5.0

7月12日、新日本プロレス登場!


 1994年頃、みちのくプロレスの巡業を追いかけていたことがある。楽しかったが、ただ、残念だったことも。3月シリーズだったが、大好きだった主力の1人が、原因不明の欠場をしたのである。今風に言えば、それは“一時的なモチベーションの低下”だったのだが、戻って来るかどうかわからないこちらは、気が気でない。思わず、現カズ・ハヤシであるマスクマン、獅龍をつかまえて、その選手の動向について聞いていた。宮城の海沿いの会場だったと記憶している。「どうしているか、わかりませんか?」獅龍はマスク越しにもわかる困惑した体で答えた。「わからないんですよね……。私の師匠ですからねえ。早く帰ってきてほしいんですが、本当に、私の方こそ知りたいくらいで……。答えられずに、すいません。そうだ、ミルキーあげる」ミルキーって、あの不二家のキャンデーだが、なぜかそれを、筆者にくれた。

 そこから16年後の2010年の後半、全日本プロレスの後楽園ホール大会の開場前、リングが設営された直後だったと思うが、カズ・ハヤシが、筆者の横を通り過ぎた。筆者は唐突にカズ選手を呼び止め、過去を説明し、言った。「ミルキー、もらったんですよ」カズ選手は答えた。「覚えてる……!」

 いささか筆が過剰に滑ってしまい申し訳なかったが、書きたいのは、なぜ、筆者がその時、この話をいまさら持ち出す気になったかである。実はこの直前の全日本プロレス事務所での会見で、当時、盤石の世界ジュニア王者だったカズ選手が、こう言っていたのだ。「(王者であるうちに)戦いたい相手が、3人います」……。うち1人が、前出の会話の“師匠”であることは、疑いようもなかった。なぜならその師匠は、この会見の時点で、翌2011年の6月に、国内での試合を引退することが、既に決まっていたからだ。カズ選手の口調から、時間的な焦りを感じ取ったこともあった。“どうしても師匠に、強くなった自分を見せたい”。そんなカズ選手の心持ちも伝わって来て、思わず大昔の師弟話を持ちだした次第だった。カズ選手の師匠とは、もちろん、元SATOこと、ディック東郷選手である。

 2012年に引退も、2016年に復帰を果たしたディック東郷が、一躍、時の人となった。7月12日の新日本プロレス・大阪城ホール大会でBULLET CLUB入りしたのだ。Twitterのトレンドワードに上がったことを本人自身が驚いていたが、ここに来てのディック東郷の新日本参戦が、充分過ぎるほどのインパクトだったということだろう。

 今回の当欄は、ディック東郷特集としてお送りしたい。

ヒール(ルード)の肩書以上の異名が。


 ディック東郷、本名、佐藤茂樹は、1969年生まれ。最初はFMWに入団するも、数ヶ月で退団。その後、後の邪道、外道、ザ・グレート・サスケ、スペル・デルフィンを先輩プラス、いわば、トレーナーとして、ルチャ専門団体ユニバーサル・レスリング連盟でデビュー(1991年)。もちろん新弟子時代、金はないし、デビューしてからも未払いが続き、東郷は外道と公園で練習したり、マクドナルドでバイトをしていたサスケに、賞味期限切れのハンバーガーを貰ったりという日々だったという。健全な経営を目指しサスケが旗揚げしたみちのくプロレスに移籍後、正規軍の副将マスクマン、SATOとして活躍したが、デルフィンとのマスク剥ぎマッチ(名勝負!)に敗れ、素顔に。そして1994年9月よりヒール・ターンし、1996年よりディック東郷に改名。ディック・ザ・ブルーザーやディック・マードックら、悪役レスラーによくある名称と、これまた有名日系悪役レスラーの、グレート東郷を合体させた、いわば悪ざんまいのリングネームだった。「自分は元々ヒール向きですから」と言うように、当時、発売されていた自身のTシャツには、『SOY RUDE』と大書されていた(※スペイン語で、“俺は汚い奴だ”の意)

 だが、彼に結局ついた異名は、悪を示すそれでは、まるでなかった。彼の、ヒールとはまた違う資質を表す逸話として、以下がある。1991年6月5日、MASAみちのく(後のザ・グレート・サスケ)を相手にデビュー、つまり初陣を飾った際だ。会場である後楽園ホールのコメントスペースで、高名なルチャ好きの編集者が、彼にこう聞いた。

「君、どこかでプロレス、やってたの?」

 デビュー戦ながら、余りにも動きが堂に入っていたための、驚嘆を含めた問いかけだった。そう、東郷の最もよく知られた異名は『レスリング・マスター』。その職人肌の技術こそ、多くのレスラーたちを虜にして来たのだ。

2011年に国内引退後、海外での引退ツアーへ。


 本人は、「メキシコに行ってから覚えた」というが、卓越した受け身の技術。これまた師匠にあたるグラン浜田の前で披露し、浜田が目を瞑った状態なのに、「よし!」と言わしめた。受け身の音が、奇麗に一つにまとまっていたのだ。「自分が痛くならないように」と、選んだフィニッシュ技は背中から落ちるセントーン。だが、研鑽を積み、空中で、どこに落ちるかコントロール出来るようになっていた。もちろん、見た目の破壊力も抜群。「アメリカでは、ダイビング・セントーンは、『トーゴー』の名で知られてるんですよ」と胸を張る。

 深夜、プロレスをテーマにしたトーク番組で、『自分の理想の団体を作る』というお題が話されたことがあった。順次、そのために欲しい選手を挙げて行く趣向だったのだが、他のパネラーが軒並みエース・レスラーの名を挙げる中、同じくパネラーとして参加していた北斗晶が言った。「私は、どうしても、ディック東郷が欲しいですね」レスラーが選ぶレスラーというランキングがあれば、上位に顔を出す。それがディック東郷だったと言っていいかも知れない。

 2001年、とある団体に参戦。若手選手の練習を見ながら、思った。(意味のない練習だ……)。自分で、自分なりの稽古をつけたレスラーを育てたいと、2004年末、プロレスラー養成所『SUPER CREW』を設立。2年ほどの存続期間だったが、現DDTの佐々木大輔らを輩出。冒頭にも少し触れたが、2011年6月30日、後楽園ホールで外道を相手に国内では引退。「一番いい時期に辞めたい」と、以前より思っていたからだった。外道は試合後、マイクで最大級の賛辞を贈った。「東郷!お前は俺の中で、過去、現在、未来において、ベストなレスラーだ!ありがとう!」

 ところがである。そのちょうど1ヶ月後の7月31日、日本テレビ『笑点』を観ていると、こんな声が聞こえて来た。「明日から、ディック東郷という男が、プロレスの世界ツアーに出るそうであります」……。円楽師匠であった。(6代目)円楽師匠と言えば、前拝名の三遊亭楽太郎時代から、大のプロレス好き(※天龍源一郎とは両国中学校で同期)。件の東郷引退試合も、最前列で観戦していた。番組冒頭の自己紹介タイムのまくらにディック東郷を出し、エールを贈ったのだ。そう、東郷はその後、約1年をかけて、諸外国を巡り、その地のプロレスを体験。最終的な引退地を、ボリビアと定めたのだ。それは、東郷が尊敬する革命家、チェ・ゲバラが没した国であった。

引退の前の晩に泊まった、思い入れ深きホテル


 若い頃から坂本龍馬に憧れていた東郷。同じく革命の志を持ったゲバラにはまったきっかけは、南米に行くと、やたらとその顏のTシャツを見かけたから。日本でも多いくらいだからさもありなんだが、そこで興味を持ち、心酔していったという。そして、大の旅行好き(夫人とも海外の旅先で出会ったとか)。まさに東郷らしい引退ロード。とはいえ、オーストラリアから西ヨーロッパ、最後は南米と、ほとんど一般的にはほぼプロレス未開と思われる地を回るわけで、ギャラは、「その日の寝床にありつけられれば良し」とした。資金は貯金と車を売って工面した約800万円。貯金の中には結婚式の費用として残していたものもあったが、同じく“バックパッカー”の妻は、「最後くらい、好きにしたら」と快諾した。

 都合19か国を回り、最終目的地であるのボリビアの試合会場は、標高3000m以上の地。薄い空気に苦しんだが、ラストマッチの前日は、念願だった、チェ・ゲバラが実際に泊まったホテルの部屋に、チェックイン。他に泊まる場所もあったが、「この日だけは」と、2週間前から予約していた。ベッドに横たわると、自然と涙が出て来たという。翌日は、日本からも、かつて教えた弟子たちや妻、大師匠にあたるウルティモ・ドラゴンも来場。有終の美を飾った。

 復帰を決めたきっかけは、ひょんなことからだった。2013年夏に、ベトナムに出来る新たなプロレス団体のコーチを頼まれ、渡航。だが、その話が頓挫となり、2年ほどはカジノのバウンサーとして働いたが、2015年8月、現地のプロレスイベントがおこなわれることになり、その主催者が出場を懇願したのだ。土砂降りの中の野外会場であったが、いざ出場し、受け身を取ってみると、返って来る大観衆の喝采。忘れていた感覚が蘇り、2016年6月、自身のTwitter上で復帰を宣言。やはりというべきか、9割が好意的な反応だったという。皆、思っていたのだ。東郷の引退は早すぎたと。プロレス界にとって、大きな損失だったと。

 因みに、東郷については、2011年以来、9年ぶりの新日本プロレス参戦とする報道もあるようだが、復帰後の2017年7月に、若手中心の興行『LION’S GATE』に出撃。こちらも先日の新日本プロレスの大阪大会を賑わせた、現マスター・ワトこと、川人拓来を相手に勝利している。広義に言えば、約3年ぶりの新日本マットとなる。

 そして、その復帰に尽力したと思われるのが、そう、現BULLET CLUBの頭脳、外道だ。

「外道さんは、優しい人だなって……」(東郷・述懐)


 先述のように、外道を師匠の1人としてきた東郷。国内引退試合でも、外道がマイクを持つ直前、自身がマイクで、こう言っている。「外道さん……。自分は外道さんが先輩で、本当に良かったです……」。外道は試合後のコメントスペースで、こう言った。「寂しいね。本当に寂しいよ。早すぎるし、惜しすぎる。こんなに寂しいのは初めて。俺の中では、普通の後輩じゃないから。本当に、一番好きな奴だったから」……。

 金がなかったユニバーサル時代。外道とともに、新宿の歌舞伎町を歩いた。すると、露天にふと目が留まった。ゲバラと並ぶ、東郷の憧れである坂本龍馬のポスターが、1000円で売られていたという。思わず足を止めて、言った。「かっこいいなあ!欲しいなあ!いや、自分の憧れなんです。金ないけど(笑)、いつか、欲しいなあ……」すると、外道は言った。「そうか、欲しいのか。買えよ」そう言って、1000円を出してくれた。だが、その時の外道の財布の中には、残り500円程度しか無かったという……。

 龍馬への憧れそのまま、プロレス界の、そして世界の荒波を超えて、より逞しくなって帰って来た東郷。自著には、こう書いている。「もう引退はしない。生涯現役だ」(『東郷見聞録』彩図社・2019年刊)。外道とのユニットで、大暴れする日が待ち遠しい。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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