2020/5/31 13:56

三沢の死で棚橋に変化。教科書に載った馬場の生き様。木村花よ永遠に!プロレスラー、逝去コメント集

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三沢の死で棚橋に変化。教科書に載った馬場の生き様。木村花よ永遠に!プロレスラー、逝去コメント集
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5月23日、22歳の若さで死去。


 5月23日、痛ましい悲報が入った。木村花選手の永眠である。読者の皆様もご存知のように、同ニュースは、その後、世間一般の興味も集め、日々、続報が出される展開に。母・木村響子の意向を、少なくとも忖度はしていない報道が跋扈している印象もある。

 さて、各レスラーの逝去に関しては、その追悼として、拙筆ながら過去の偉業、功績を綴り、悼んで来た本欄ではあるが、花選手については、まさに話題となっているリアリティー風番組の出演を契機に、そのリング上での輝きを既に辿っている(2019年10月27日更新分)。あれから僅か約半年しか経っていない中での訃報ということに、さらに哀しい衝撃を受けざるをえない。この極めて短いスパンに、そのリング上での溌剌さを改めて繰り返すのも、気が詰まるのが本音である(何より、筆者がその死を受け止め切れていない部分もあり)。ただ、消えないのは、木村花という選手が、私たちが長きに応援するプロレス界において、確かな足跡と煌めきを残したという事実。特にプロレスという吸引性の高いジャンルにおいて、それは今後も、形を変え、対戦した選手やファンの心に息づいて行くものと思うし、そう信じたい。

 花さんへの各選手の追悼コメントの類は、読者の皆様もネット等で既に視認されていることだろう。そこで、今回の当欄は、花さんを含め、過去20年余に星となったレスラーたちへ仲間が送った追悼コメントを精査し、特に意義や未来を感じさせるものを抽出してみた。花はいなくなったが、リングに残した魂は消えない。そこから見えて来る、プロレスというジャンルの素晴らしさと永続性を、共に噛みしめられれば幸いだ。

亡き馬場に、感慨深い川田、秋山の言葉


「いなければ、プロレスをやっていなかった」1999年1月に逝去した、ジャイアント馬場へのコメントである。言ったのは天龍源一郎。プロレス入りを決めかねていた際、出会った馬場の笑顔に魅せられ、その後の天龍があるため、まさに本音の一言だった。ジャンボ鶴田、小橋らも同様の発言をしていたが、この時期、川田利明だけは、何を聞かれても、「今はまだ……」。ショックの大きさを感じさせるが、その後、所属選手の大量離脱を経ても全日本に残り続け、契約的には実質、フリーながらも、馬場の七回忌までは全日本で戦い続けただけに、思い入れの果てしない深さを感じさせた。また、この(馬場逝去の)時、秋山準が残した言葉は、「まだ恩返しをしてないので……」巡り巡って全日本プロレスを秋山が受け継いでいることに、縁を感じざるをえない。61歳で永別するまで現役を続けた馬場だが、「リングに上がり続けることが健康の秘訣だったかも知れないけど、重い病気になるまで続けなくても……」という意見も。元IWAヘビー級王者のサンダー杉山の言葉だが、自身は40代を迎える頃にはセミリタイア状態にあったため、頷けるものもある。だが、馬場のそんな生涯現役を貫いた生き様は、2001年の学校図書刊『かがやけ みらい』に『やさしく強き巨人』のタイトルで掲載。同書は、小学5年生の道徳の副読本として使われている。

 同じ年の5月には、第6代IWGPジュニアヘビー級王者にも輝いているオーエン・ハートが転落死。WWF(現WWE)における、宙づり状態での入場時に、ワイヤが外れ、落下したものだった。「もう一度、対戦してみたかった」と、当時の好敵手、越中詩郎が言う一方で、同じく戦友ながら、既に国政の場にいた馳浩は、「過剰な演出が原因で亡くなられたことが、本当に残念」。オーエンとはカナダでの武者修行時代からの仲であった。行き過ぎた演出への警鐘は、まさに今回の花さん出演のリアリティー風番組の色付けを思わせる。馳は今回の件に関し、ブログで、「(SNSが)一人の人間を死に追いやる事も可能であることがわかった。(中略)想定外の事で済ませてはならないのではないか」とも喚起している。

橋本の死に、中西の涙


「言葉じゃなく、体でプロレスを教えてくれる人だった」と、泣きながら中西学が語る。2005年7月、橋本真也の急死に当たってのコメントであった。シンプルながら、橋本のプロレス観すら伝わって来る一言だった。仲が悪いと言われていた佐々木健介も、ある時、道場でのスレ違いざまに、橋本にこう言われたことがあるという。「俺たちは、リングの中で、わかり合えてるよな」そんな健介の惜別のコメントは、「いつになるかわからないけど、天国でまた戦いましょう」というものだった。また、付け人時代の橋本を、その出来の悪さからクビにしたこともある坂口征二は、訃報を受け、「朝のスポーツ紙が、全部、橋本の死を伝えるものだったんだよ。社会的に扱ってくれたんだ。社会的に認められたプロレスラーだったんだよ」と、万感の思いさながら、語っている。そして、晩年の橋本が、自ら負債を被る形で袂を分かつことになったZERO-ONEの専務取締役(当時)の中村祥之は、「橋本さんだったら、こうしていただろうなあというプロレスを、僕らはこれからも見せて行くだけ」と明言。ZERO-ONEはZERO1-MAX、ZERO1と改称しつつ、現在も続いている。

 今年創立20周年を迎えたNOAHも、かつてのリーダーの遺志を継ぐ。言うまでもなく2009年6月13日、リング禍で亡くなった三沢光晴のことだが、翌日の試合で、選手それぞれがお悔やみを述べる中、高山善廣の、「俺はいいよ。社長の遺志を継ぐ、若い奴らの試合を観てやってよ……」の言葉が今にしても尊い。また、この悲劇は他団体にも影響。棚橋弘至が、哀悼の言葉とともに、以下のコメントを残している。「自分の中ではぐらかして来たけど、改めて死に近い職業なのだと認識しました」。棚橋の発言に詳しい読者ならおわかりになると思うが、棚橋は以降、プロレスを『競技』と表現するようになった。文字通り、技を競うジャンルという意味である。そこには、「死に至るような残酷な我慢比べではないんです」という意味も込めていると、筆者が実際インタビューした時も答えてくれた。振り返ると、2010年代からの新日本プロレスの試合は、激闘は激闘であっても、いわゆる、投げっぱなしであったり、頭から直下させるような投げ技が極端なまでに少ないことがわかるだろう。現場のリーダーでもある棚橋の思いが団体の総意として結実したと思いたい。

 NOAHの至宝、GHCヘビー級の現王者(第33代)は潮崎豪。まさに三沢の事故の際、そのタッグパートナーを務めていた。帰らぬ人となった三沢への思いを、こんな風に述べている。「どんなことがあっても、一度決めたら、一人の人間としてやり通せということを、(三沢さんから)教わりました」。訃報の翌日、まさにGHCヘビー級王座を自身、初奪取したのが潮崎だった(第15代)。あれから11年。三沢の命日の翌日にあたる(本年)6月14日に、その潮崎が、防衛戦をおこなうこととなった。相手は、まさに三沢の最後の対戦相手となった齋藤彰俊。2人とも、一言では言えぬ思いがあるだろう。試合、そして決着後に残す言葉に、注視したい。

木村花さん、永遠に


 最後は、今年没後20年を迎えたジャンボ鶴田を巡る言葉を。若き日はその付け人であり、弟分でもあった三沢は、「“僕はどんなことがあっても、100%、ミチャワ君の味方だから”と最後まで言ってくれた」と、その呼称も含め故人を回顧。三沢のNOAH設立へ背中を押した言葉の1つであった。その鶴田、肝臓を悪くし、ドナーを探し求めた挙句、その移植手術の際の出血多量により落命。死去間際の渕正信との電話で、こんな会話があったという。

「いいなあ、渕君は」「何言ってるんですか。鶴田さん、美人な奥さんも、お子さんも3人いて……。僕なんてずっと独身ですよ(笑)」「いや、渕クン。健康が一番だよ」……。盟友、スタン・ハンセンは、鶴田の召天にあたり、こう述べている。

「彼は最後まで、人生と戦い続けたんだよ。誰も彼のそんなファイトを語ることは出来ない。彼自身の戦いだからだ」

 なんとなく、木村花さんについても、同じことを思う。数ある彼女への選手たちの追悼ツイートの中から、2つのみ引用させて頂き、本稿を終えたい。


「花。。。
花のこと大好きだよ!」(松本浩代)


「木村花
ちょっと時間掛かるけどよ、
てめぇが吹っかけてきた喧嘩の続きは必ず向こうでやってやる
だからちゃんとリング立てとけや
終わったらバカみてぇに酒でも飲んでお前の話でも聞かせろよ
またな」(刀羅ナツコ)


木村花さんのご冥福をお祈りします。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

コメント

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  • 今の新日本は激しいプロレス復活してるでしょ。それがまた称賛されてる。まあ仕方ないけどね。

    ID:17202180 [通報]
    (2020/7/14 22:44)
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