2020/4/26 19:49

記者が電流爆破被弾!日本初のトペに写真がない理由!防護服は、ある意味安全圏?『記者&レフェリー受難伝説』!

閲覧数:416

記者が電流爆破被弾!日本初のトペに写真がない理由!防護服は、ある意味安全圏?『記者&レフェリー受難伝説』!
5.0

完全防備で撮影&取材!


 4月19日、『AMEBA』で放映されたノアのテレビ中継を観て、驚いた読者も多いのではないか。リングサイドに、上下、白づくめの衣装を着た人員が何人もいたのである。一種、異様な光景に見受けられたが、既報通り、これは、昨今のコロナウィルス対策のための防護服。撮影スタッフが着用を義務付けられたのだった。話によると、今後も、良きテレビ中継を鑑み、同服の発注がおこなわれたとか。

 プロレス団体が文字通り、病魔に襲われるケースは、ままある。2009年の全日本プロレス『世界最強タッグ決定リーグ戦』では、インフルエンザ禍により3チームが途中離脱。1997年9月には、大日本プロレスで集団食中毒が発生。「替えのパンツ3枚持参」と、「腹部攻撃厳禁」という妙な(いや、リアルな)お達しが、時のグレート小鹿社長からなされたという噂もあった。今回は、そういった受難、並びに対策が周囲のスタッフにも波及したわけだが、プロレスに限らず、歴史あるジャンルには、かように、マスコミや関係者が巻き込まれるハプニングもつきものだ。

 今回の当欄は、そんな第三者を主役にフィーチャー(?)。「記者&レフェリー受難伝説」としてお送りしたい。

やはり難儀な、電流爆破取材


 まず、今回のような防護服関連で思い出されるのが、1990年8月、当時、大仁田厚が率いていたFMWでのリングサイド風景。野外で、気温30度を超える炎天下ながら、リングサイドのカメラマン全員が、長袖を着こんでいたのである。そう、本邦初の電流爆破マッチがおこなわれる日だったのだ(8月4日・汐留レールシティ)。蓋を開けてみれば、比喩でなく、本当に火の粉が降りかかる状況。以降、「電流爆破時は、長袖で取材」がカメラマンの暗黙の了解になったとか。こちらは、レスラー側にも意識をうながし、大仁田が新日本プロレスに上がって初の電流爆破マッチをおこなった際は、対戦相手の蝶野が厚手の防護服に身を包み登場。これを知らされてなかった大仁田はリングに上がって仰天したそうだが、これは、「お前の世界には取り込まれない」という蝶野の主役としての意思表示とも取れる。その点、脇役ながら、いやがおうにもとばっちりを受けるのが、この電流爆破マッチを裁くレフェリー。同試合も、実はレフェリーを巡って二転三転。新日本プロレス側からは山本小鉄やタイガー服部の名が挙がったが、大仁田は中立的立場のそれを要求。結局、WAR(当時)の海野レフェリーが務めることとなったが、案の定と言ってはなんだが、やはり爆破に巻き込まれていた(しかも強引に大仁田が同体で引っ張る形)。会場は盛り上がっていたが、新日本側のレフェリーを要求しなかったのは、大仁田の深遠な底意かも。

 他、こちらの本家であるFMWのリングでは、レフェリーの重装備が定番に。今回のノアの防護服を遥かに超えた、消防士のようないで立ちがお馴みに。来日したテリー・ファンクが同レフェリーを新手の覆面レスラーと間違えるという漫画が専門誌に載っていたほどであった。

場外乱闘受難もプロレスの華?


「カメラマンの皆さんは、(今から)フェンス外に出て頂きます!」マイクを通して、こんなレフェリーの宣告がなされたのが、1987年4月27日の、新日本プロレスの両国国技館大会。カードはメインイベントの猪木vsマサ斎藤。中盤より、ロープを使っての反則攻撃が目立ち始めた斎藤に、猪木が激高。試合途中で、なんと、「全部のロープを外せ!」と言い出したのだ。つまり、試合は、ノーロープマッチに。場外への敷居がなくなるわけで、カメラマンへの危険を加味した処置であり、極めてリアリティのあるお達しであった。逆に言えば、そう、カメラマンも、当然、受難の対象にはなるわけだ。リングサイドより撮影することもあった筆者自身は幸いにもそういった危険の遭遇はゼロ。ただ、一度だけ、選手の投げたパイプ椅子が場外でコーナーポストに当たり、不規則な軌道で目の前に跳ね返って来た時はキモを冷やしたが。実は選手は、カメラマンに相当に気を使っているし、カメラマンも、ベテランになればなるほど逃げるのも上手いというのが正直なところ。後年のジャンボ鶴田さんが、それがつまらないのか、コーナーで控えている最中、馴染みのカメラマンの手の平を踏んづけて楽しんでいたのを思い出す。

 それでも、場外乱闘時はやはり危険が。筆者の周囲にも、逃げ遅れてメガネを割られ、団体に修繕費を貰ったカメラマンが。中でも、今でも恐れを持って語られるのが、1993年8月23日、静岡での全日本プロレスの大会。小橋がスティーブ・ウィリアムスを場外のフェンスへと放ったのだが、この時にいた、テレビの音声スタッフが逃げ遅れ、思いっきりウィリアムスとフェンスの間に挟まる形に、しかも、ウィリアムスを背中で受け止める形となったのだが、何せ、あの巨漢。背後からの威圧でスタッフの上体が大きく前のめりになったその先に、テレビのモニターが。同スタッフはそちらに頭もぶつける、まさにWの悲劇。入院の運びとなったのだった。

 1989年12月31日におこなわれた試合では、場外にライガーが飛ぶと、その直近にいたカメラマンに衝突。カメラは破損し、記者はおおわらわだったが、ライガーほどの人間が、こんな露骨な衝突事故を起こすわけがない。実はこれ、新日本プロレスの初のモスクワ興行でのお話。ソ連(当時)の記者に、プロレスの予備知識がまるでなく、選手が場外に飛んで来るということが頭になかったのであった。因みに、日本で初めてトペ・スイシーダを披露したのは、今を続ける百田光雄だが、この時の記念すべき画像は、1枚も残されていない。言わずもがな、当時のカメラマンたちに、選手が場外に飛んで来るという発想がなかったためである。

狙われやすい記者の経歴は、ズバリ!


 そして、カメラマンや記者のマスコミ陣において、極めてプロレス側のとばっちりを受けがちな人種がいる。それは、『学生プロレス出身者』。2017年10月9日、東京・お台場での電流爆破マッチ、大仁田厚、雷神矢口、保坂秀樹、佐瀬昌宏、HASEGAWA組対米CZWのマット・トレモント、DJハイド、NOSAWA論外、FUJITA、チェーンソー・トニー組では、某紙のK記者が、場外乱闘に巻き込まれた挙句、CZW軍にリングに上げられ、電流爆破を被弾。幸いにも目立ったケガはなかった怪我はなかったようだが、大仁田は試合後、同記者に一言。

「さすが学プロ出身だな。上手かったよ」

 何が上手いのかよくわからないが、大仁田には更なる前科が。1992年10月、FMWの奄美大島大会でのこと。当時の大仁田番として有名なT紙のH記者なる人物がいたのだが、突然、彼に、こう言った。「そうだ。お前、今日、デビュー戦な。リングネームはご当地っぽく、天草四郎海坊主。いい名前だなぁ。トラックにマスクあるから、それ被れ。おい、誰かコイツに、タイツとシューズ貸してやれ」第1試合で、後のハヤブサである江崎英治と戦うことに。リング上で受け身の練習もさせられ、コスチュームにも着替えさせられたが、H記者は直前で逃亡。後で大仁田には、「なんだよお前、つまらない奴だなあ」と怒られたそうだが、ことなきを得たとか。

 ただし、余談が一つ。大仁田から隠れるため、マスク姿でH記者が体育館の裏に逃げ込むと、そこにいた地元の少年ファンが色紙を差し出し、一声。「サイン下さい」。やむなくH記者は『Amigo』と英語で書いたという。「罪悪感があった」というH記者だが、いわば、貴重な代物。お持ちの方がいらしたら、ぜひご一報願いたい。

皆で盛り上げるのが、プロレスの本懐!


 最後に好きな逸話を一つ。電流爆破同様に、危険とされるレフェリングの1つが、大日本プロレスがおこなう蛍光灯マッチだが、これを多く裁いて来たのが、李日韓レフェリー(※現在は全日本プロレス所属)。彼女はそもそもマスコミ畑の人間で、『週刊ゴング』にも在籍していたことがあるが、巡り巡ってこの道へ。とはいえ、血みどろの試合が続く大日本プロレス。直視出来ないような大怪我も間の当たりにして来た。そんな時、伊東竜二から、こう言われたという。

「泣くなら、リングから降りろ」

 体と同様、心も鍛え、2009年には伝説の試合を裁く。プロレス大賞を受賞した、葛西純vs伊東竜二(11月20日・後楽園ホール)受賞後、葛西には食事をごちそうされ、伊東からはプロレス大賞の賞金をそのままもらった。そして、2人は李に、こう言ったという。

「俺たちが凄いんじゃない。あれは3人でとった賞だから」

 選手たちのみならず、レフェリーも、記者も、カメラマンも、実況アナも、一緒になって互いのベストを尽くし、プロレスの最高値は塗り替えられて行く。そのメンバーの中に何よりも欠かせない要素があると思う。それは観客だ。

 激闘を生観戦出来る日が早く来るよう、願ってやまない。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

コメント

    まだコメントはありません。

おすすめ記事

新しいコメントを投稿する

 [PCから画像ファイルをアップロード]

関連付けられたタグ

なし
[タグを付ける]

<< 一覧に戻る