2020/1/20 12:13

網走刑務所育ちの格闘歴!海外では武藤の母親代わり!? 追悼 ケンドー・ナガサキ

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網走刑務所育ちの格闘歴!海外では武藤の母親代わり!? 追悼 ケンドー・ナガサキ
4.5

1月12日、享年71で永眠。


 プロレスというジャンルの充実は、発売されるグッズにも表れるものだと思う。例えば『レインメーカードル アンブレラ』は、2014年に発売された逸品。言うまでもなくオカダ・カズチカのグッズなのだが、傘の表面にドル札が印刷されており、金の雨を防ぐ(?)一品となっている。同じく昨年夏、発売されたのが、『レインメーカードルシューター』。ピストルの形状のオモチャで、引き金を弾くと、オカダのレインメーカー・ドルが空中に散布される。あの、オカダの入場シーンを再現出来るわけだ。遊び心満載のこれらは、2012年から始まる新日本プロレスの新たなブームがなければ、なかなか世に出ぬ商品だったろう。猪木がPRIDEの会場にも登場し、その張り手や挨拶とともにプチ・ブームになった2002年には、往年のボードゲーム『人生ゲーム』(タカラ)に、『アントニオ猪木版』が登場している。

 メジャーのみならず、多様な団体が興行的に成功を収めた1990年代にも、こういった動きはあった、“理不尽大将”の異名でやりたい放題のヒール像を確立した冬木弘道には、当時所属していたWARから『ブーイング笛』が発売。吹くと「ブー」「ブー」と音が鳴った。これを鳴らしてブーイングの代わりにという代物だった。

 そして同時期に同じくWARから発売されたのが、消火器型のライター。側面には、こう記されていた。『消火鬼』と。これを異名とし、同団体にて消火器による噴射攻撃を展開させていたケンドー・ナガサキのグッズである。翌年には彼個人をフィーチャーしたビデオ、『ケンドー・ナガサキの喧嘩プロレス』(ベースボール・マガジン社)も発売。言わば、ちょっとした時の人となったのである。

 そのケンドー・ナガサキ、本名・桜田一男さんが1月12日、逝かれた。ビデオタイトル同様、喧嘩をさせたらプロレス界一強いと言われた猛者であった。今回の当欄では、その人柄も含め、故人を偲びたい。

網走刑務所で鍛えられた凄玉


 1948年、北海道網走市生まれ。網走と言えばその名を冠した刑務所でも知られるが、生家から同所までは徒歩3分。祖父も父も同所の刑務官だったというから凄い。よって、子供の時から同刑務所が遊び場であり、所内の柔道場で柔道を学んでいたという。“喧嘩最強”を物語る一端として、各スポーツ紙には、「少年時、木刀1本を持って流氷に乗り、トドを見つけては一騎打ちを挑んでいた」とか、「プロレスの営業車が30人程度の暴走族に囲まれた際、そのバイクを1つ1つ壊して行った」などの逸話が語られていたが、こうした生い立ちを聞くと、さもありなんとも思えよう。

 体もでかく、噂を聞きつけた東京からスカウトが来訪し、大相撲の立浪部屋に入門。『網走洋』の四股名を名乗ったことも。幕下で全勝優勝を果たしたこともあったが、部屋の人間関係に嫌気が指し、廃業。日本プロレス入りし、1971年、プロデビューとなった。

 自由な気質が合ったのか、全日本プロレスを経て、アメリカで一匹狼に。ペイントを顔面にほどこし、剣道着を入場時にまとう『ケンドー・ナガサキ』となったのは、テキサスで興行を打っていたザ・ファンクス(ドリー・ファンクJr.、テリー・ファンク)の入れ知恵。リング内に竹刀を一本置き、それを取り合う『ケンドースティックマッチ』を戦うなど、さまざまな試合を経験し、いつしか全米でトップを張れる存在に。よって、80年代はアメリカが主戦場となり、日本のリングで戦う際は、あくまで来日扱いの外国人枠に。全日本プロレスでは謎のマスクマン、ドリームマシンに、新日本プロレスでは素顔のランボー・サクラダ(後にケンドー・ナガサキ)に、FMWではドラゴン・マスターというリングネームで戦った。全日本でマスクマンとなったのは、ケンドー・ナガサキのまま来ると、既に売れっ子になっていた全米でのファイトマネーを勘案しなければならないため、それを抑える方策としての全日本側の措置だったとされる。

 1990年10月旗揚げした新興団体、SWSに所属となり、日本にほぼ定着。1992年6月、同団体が終焉すると、2つに分かれた後発団体の1つ、NOWを率いることに(もう片方がWAR)。しかし、1993年1月、所属の若手、直井敏光が同団体のトラックを運転中、交通事故死。この出来事がナガサキにも極めて大きな精神的打撃に。トラック運転を直井に頼んだのがナガサキだったのだ。NOWは同年の10月に終幕した。

 ところで、件のSWSからNWOに行った若手レスラーに、畠中浩旭という選手がいた。もともとはプエルトリコでデビューし、日本での所属団体はSWSが最初。現在は北海道で「アジアン・スポーツ・プロモーション」という団体を主宰しているが、かつては専門誌に「和製リック・フレアー」と書かれたほど、味のあるレスリングをする強者だった。彼に酒席で、聞いたことがある。「SWSが分かれた時、どうして天龍さんの方(WAR)に行かなかったの?」実は天龍が畠中の実力を評価しており、誘いをかけていたという話も聞いていた。すると畠中は答えた。「ナガサキさんの作ってくれた、親子丼の味が忘れられなくて……」日本の団体で生まれ育ったわけでない若い畠中と寝食をともにし、面倒を見たのがナガサキだった。そう、ナガサキは、プロレス界屈指の世話好きな人物であった。

武藤敬司の、母親代わり!?


「最初に海外に行って同居して、いつも飯を作ってくれたのがナガサキさんだった。あの人がいなかったら、俺、絶対、アメリカであんなに活躍出来なかったわ」武藤敬司の述懐である。食事の世話はもちろん(※因みに料理がまるで不得手な武藤は食べ終わった食器を洗う役目だったとか)、移動の手配や、もちろんアメリカのリングでの戦い方まで指南したのがナガサキだった。2人で女性のペアをナンパをし、それぞれベッドインしたところ、実は女装した男性だったというエピソードも。NOWが崩壊後、1995年3月16日には、今に続く大日本プロレスを、グレート小鹿とともに旗揚げ。「本音はアメリカでフリーでやりたかった。その方が稼げるから」との本人の本音が残る。ナガサキが出場したメインのバラ線デスマッチでは、妙に観客が悲鳴を上げ、沸いていた。読者も経験があるだろうが、プロレス初見の客が多いと、反応の仕方でそれとわかるものである。事実、この日の客(3360人・満員)は、ナガサキと小鹿が、その顏の広さを活かし、チケットを手売りで集めたものだった。リングはSWS→NOWと使われたものだったが、実はある部分が新調されていた。リングの高さが、若干低くなっていたのだ。巨大企業であるメガネスーパーが母体となったSWSは、東京ドームなど、大会場での開催を見越し、遠方からでも見やすいよう、リングを高めにしていた。だが、特にリングサイドのカメラマンから、「撮りにくい」との不満が続出もしていた。大日本は(今でもそうだが)大会場中心でなく、地方も地道に回るコンセプトとも聞き、リングを低めに直したのだ。こんなところも、ナガサキの気遣いだった。人脈から、魚の仲介業も務め、天龍の経営していた寿司屋『しま田』には鯛を卸していた。

 そんなナガサキが、当時、黒船とされたヴァーリ・トゥード(以下VT)に挑んだのは、1995年9月のことだった。

情に生きた、トップレスラー


 1995年4月、ヒクソン・グレイシーが日本初試合をおこない、日本武道館でのトーナメントに優勝。弟のホイスがアメリカでの第1回のUFCに優勝して2年後のことだったが、日本武道館でヒクソンの強さを見たグレート小鹿は、早速、ナガサキを主役にしたVT路線に着手。喧嘩最強と謳われたナガサキだったし、旗揚げしたばかりで売りに欠けた大日本において、この方針は渡りに船だった。事実、冒頭のナガサキのビデオも、このVT路線の宣言を受けて、『週刊プロレス』のレーベルから発売。パッケージには、こう記載されている。『グレイシーは俺が殺(や)る!!』

 予定では、9月にナガサキのVT第1戦。そして12月に2戦目をおこない、翌年5月にヒクソンに挑戦という手筈だった。この頃のヒクソンのファイトマネーは高騰しておらず、1千万円もあれば呼べる状態だったため、決して夢物語ではなかった。果たして、その9月26日の第1戦は、リングサイドに錚々たるメンバーが訪れた。K-1の石井和義館長、UWFインター取締役の鈴木健、パンクラスから山田学、高橋義生、藤原組から池田大輔、参議院議員の馳浩も来ていた。

 ところが、あまねく知られるように、ナガサキは『USAケンポーカラテ』の使い手というジーン・フレジャーに26秒でKO負け。筆者の頭に、事前に友人の編集者がVTに臨むにあたり、ナガサキにしたというインタビューの内容が蘇った。

「――ヒクソンを標的にしているということですが、弟のホイスについては、どう捉えてまますか?

ナガサキ『……ん?弟がいるの?』」

 実話である。なんと、そもそもVT戦の扉を開けたと言っていいホイスのことを、ナガサキは知らなかったのだ。『ケンドー・ナガサキ自伝』(辰巳出版)には、こうある。「小鹿さんは自分は何もやらないのに、その場の思いつきで走り出してしまうから困ってしまう。(中略)そうした空気の中で、俺は小鹿さんのバーリ・トゥード路線に乗せられてしまう」別頁にはこうある。「正直、俺は人が良すぎたのかも知れない」

 本人の素顔を見ればわかるが、どうにも人懐っこい雰囲気に穏やかな口調。後年、筆者がインタビューした時、「俺、そんなに喧嘩、強くないんだけどな……」と言っていたのが忘れられない。

 大日本の旗揚げ戦。ナガサキが控室に招待し、写真に納まった男女がいた。故・直井選手の両親であった。ナガサキは、自身が借金を背負いながらも、保険金の全額譲渡は勿論、直井家への便宜を続け、毎年の墓参りも欠かさず。その10年後に、直井選手の両親に、こう言われたという。「ナガサキさん。もう十分ですから。本当にありがとう」

 武藤が最後にナガサキと話したのは数年前。膝への人工関節の施術を終えた武藤を心配し、自らも人工関節を入れたことでのアドバイスをしたという。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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