2020/1/12 11:51

湾岸戦争が、生き方を変えた!? 初のアルゼンチンの犠牲者は空手家!引退発表!中西学特集!

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湾岸戦争が、生き方を変えた!? 初のアルゼンチンの犠牲者は空手家!引退発表!中西学特集!
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2月22日、後楽園ホール大会で引退試合


『G1 CLIMAX』の最終戦には、さまざまなことが起こることが多い。前回の当コラムで触れた、柴田勝頼、桜庭和志の登場&宣戦布告をはじめ(2011年)、先日引退したライガーは、この場所で脳腫瘍の罹患、及び治療によるその後の欠場を発表(レーザー治療だけで済み、約1ヶ月半後には復帰・1995年)。今も政界で活躍する馳浩は、初の参院選当選をリング上から報告(1995年)。真夏の祭典の決勝の内容の濃さをアピールか、ヒクソン・グレイシーが招待され、リングサイドから観戦したこともあった(カードは天山広吉vs秋山準・2003年)。しかし、この、衆目を集めるG1最終戦で、新日本プロレス入門が発表されたのは、彼1人なのではないか。中西学である。

 専修大学時代にアマレスで頭角を現し、フリーの100kg超級で全日本選手権三連覇。和歌山県庁職員を経て、新日本プロレスのアマレス部門『闘魂クラブ』に所属。午後2時まで社員として庶務をこなしながら、その後、新日本プロレス道場でアマレスに励み、1992年のバルセロナ五輪に日本代表として出場。しかし、こちらで2回戦負け。8月9日、閉幕となった同大会の3日後の8月12日、その年のG1最終戦のリングでの新日本“プロレス”入門発表となったのである。“転向”と言い換えても良いだろう。この時、筆者は客として会場にいたのだが、白いスーツ姿に髭面の風貌と、その体躯を見て、(どう見てもヘビー級……。上背もあるし、見た目もレスラー然としてるし、将来のエース候補かもなぁ)と思ったのを覚えている。

 その中西学の引退が1月7日、発表された。プロ転向から28年。思い出や逸話には事欠かない。今回の当欄は『引退・中西学』としてお送りしたい。

デビュー1ヶ月前に、あの後輩もデビュー


 そのプロデビュー戦は伝説化している。プロ転向から、僅か2ヶ月後の10月13日、藤波辰爾のパートナーとして、当時の『SGタッグリーグ戦』に出撃したのだ。同シリーズ、藤波は前年優勝したタッグパートナー、ビッグバン・ベイダーとディフェンディング・チャンピオンとして参加予定だったが、ベイダーの参加予定が直前でキャンセルに。急場しのぎとして中西に白羽の矢が立ったのだった。背景には、この1ヶ月前、全日本プロレスにて秋山準が鮮烈なプロデビューを飾っていたことがあった。中西と秋山は、同じ専修大学アマレス部の先輩と後輩(しかも一時は同部屋で、後輩・秋山の緊張をほぐすため、中西がAVを観ていたというエピソードは有名)。他にも、同リーグ戦に出ていない選手は多数いたのだが、そこから代役を選ばずの中西の抜擢は、この秋山デビューを新日本が意識していたためとされる。言うまでもなく、アマレスの実績では中西の方が上である。保護の役目もあるのか、ヘッドギアを装着し、動きも流石にぎこちなかったが、スコット・ノートンをジャーマンで投げ捨てた姿は、インパクト大であった。

 ところが、この時期、道場で怪事件が勃発する。道場に日々備蓄していた食物が、翌朝になると消えているのである。犯人は新人・中西。そう、中西は、平成の新日本プロレスにおいては、文句なく一番の大食らいであった。

両開きの冷蔵庫を買ったわけ


 食事の模様は、昨今、中西のSNS上でも写真がアップされているのでご存知の方も多いと思うが、ベテラン選手となった近年でも、大食漢というその食事内容だけで、雑誌『女性セブン』(小学館)、『ターザン』(マガジンハウス)等から取材が来てるのだから凄い。一例をあげると、ホテルの朝食がバイキングだと、開始の午前7時から終了の午前10時まで食べ続けたという伝説が。そして、納豆は今でも3箱食べるのだが、かき回していると、大抵、納豆の箱は壊れるという。もちろん、そのパワーでだ。この手の逸話にも枚挙に暇がない中西。キリがないので1つだけ挙げると、夜、泥酔状態で起き、冷蔵庫のドアを開けようとしたところ、反対側に手をかけてしまい、それでも力を込めて引っ張ると、破壊宜しく、ドアが跳ね飛んだというエピソードだけで十分だろう。

「最近は大丈夫なんですよ。どちらからでも開く冷蔵庫、あるでしょう?ウチもあれにしましたから(笑)」(中西)

 デビュー翌年の5月26日の大宮大会では、ニールキックに来た空手家・青柳政司を空中で受け止め、そのまま両肩に乗せ、ギブアップ勝ち。フィニッシュ名は、そう、アルゼンチンバックブリーカー。中西の代名詞となる大技だが、その初披露、及びきっかけがこれだった。1995年のヤングライオン杯優勝も、1999年の『G1 CLIMAX』制覇もこの技がフィニッシュだった。ところがこのアルゼンチンバックブリーカー、先人たちのそれと比べて、中西は入り方が違うのである。通常は、バックドロップを仕掛ける時のように、相手の脇に頭を入れ、そこから肩に担ぎあげる。ところが中西の場合、相手が中腰になっているところに、その背中、もしくは横っ腹に頭をつけ、そのまま持ち上げてしまうのである。後年はオーソドックスなスタイルでの上げ方になったが、この入り方へのこだわりは中西にもあったようで、改めて、その強大なパワーがうかがい知れよう。

 以降、そのパワフルな攻めで観客を沸かせた中西。2人がかりのブレーンバスターを1人で投げ返すのは序の口。体重200kgのジャイアント・シンをジャーマンスープレックスで投げ、フォール勝ち。プラス、驚くべき事実として、中西はプロテインを摂取しない。それであれだけの肉体となり、さらに付言すれば、デビュー時と今で、ほぼ体型が変わっていないのだ。努力の賜物だろう。だが、これほどのものを持ちながら、時代を手に出来たとは言い難い。蝶野正洋にインタビューした時の言葉が蘇る。

「(中西、永田、天山、小島、カシンの)第3世代の中では、どう考えても、中西が長男だったんだけどね……」

蝶野の厳しい、第3世代評


 筆者が、闘魂三銃士の位置づけについて伺った際のことだった。「俺たちでは、武藤さんが長男、俺が次男、橋本が三男だった。だけど、橋本はいつからか、自分が長男だと思うようになってしまった。そこからおかしくなって行ってしまった」という含意ある言葉の後、第3世代を評したものだった。意外な事実も明かしてくれた。

「だから俺、第3世代を集めて、怒ったことがあるんです。『お前たちは、なんで同期の足を引っ張ろうとするんだ?そんなの、何の意味もない。それより、同期が上がって行くことで自分たちも上がって行くんだという気持ちに、何でならないんだ?』と」

 おそらく蝶野さん自身、自分がG1に優勝するまでは、武藤や橋本の存在に助けられていたという気持ちもあったのだと思う。結果、三銃士は各々が時代を掴んだ。

 カシンとの不仲は有名だし(中西の結婚披露宴のご祝儀で、割り切れる数として縁起が悪い4万円をカシンが包んだという実話がある。中西はこのご祝儀を返却)、そのナチュラルさから、藤田和之などからも『馬鹿』呼ばわりされて来た中西だが、筆者がインタビューした際は、まるでそんなことは思わなかった。1つ1つ、話してくれることにちゃんと笑えるオチがあり、むしろ、(頭の良く回る、ウィットに富んだ人だなあ)と思ったものだ。そのサービス精神も嬉しかった。筆者も、どうしてもその時の好印象があるのか、特に、カシンによる悪態については、自らが五輪に出られなかったことへのやっかみなのではと邪推したほどである。

 ただ、以下の田中秀和リングアナの言葉は印象に残る。

「器用なタイプではなかった。それであの肉体とパワーでしょう?日本人相手だと、そこがネックになってた。逆に外国人相手だと、中西も外国人も、イキイキとやっていたよね」

 また、当時のフロントだった永島勝司氏の言葉も。

「チャンスを与えたけれど、活かせなかった。プロレスがストレート過ぎるんだよな。駆け引きを知らない。根は本当に優しくていい男なんだけど」

あのレジェンドを勇気付けた姿勢


 京都市生まれで、6人兄弟の3男。家はお茶を作る農家で、中西はこの農作業を、幼い頃から手伝わされた。アマレスを始めたのは高校時代だったが、これは、夜遅くまで練習をしているアマレス部に所属すれば、家の手伝いをしなくて済むからという理由からだった。当然、父は面白くなかったが、中西はメキメキと実績をあげ、アマレスの名門・専修大学へ。行くなら農業大学へとしていた父と、ここでも軋轢を生んだ。

 ところがバルセロナ五輪、前年の時だ。湾岸戦争が始まり、父とともにテレビで観ていた中西はつぶやいた。

「これ、出れない選手が出て来ると、俺なんかでも上位を狙えるかも知れないな」

 父から返って来た言葉は、余りにも意外なものだった。

「お前、そんなオリンピック、勝って嬉しいのか?『上位の人が出てないからメダルを獲れました』、そんな安っぽいことでいいのか?」

「生き方を変えた一言だった」と中西は語る。父は中西の道を認めていたことがわかった以上に、どこか、農業の逃げとして、アマレスを斜に構えてみていた自分に気付いたのだ。

 そこからの中西は、獅子奮迅。アマレス時代の恩師、鈴木秀和さんの、こんな言葉が残っている。

「中西は不器用だから、色々なことを教えなかった。その代わり、勝つためのタックルを1つ教えると、そればかり一生懸命に練習してね。ものの見事にそれでオリンピック代表になった。一途で純粋な奴なんですよ」

 なお、アマレス五輪代表からプロレスラーになったのは、中西が現時点で最後となっている。

 その真っ直ぐさを示すかのように、新日本一筋28年。念願のIWGPヘビー級王座の初戴冠を果たしたのは、2009年5月の、42歳4ヶ月時。生え抜き選手としては、史上最高齢での奪取だった。カシンも藤田も、とうに新日本を辞めていた。

 1ヶ月後の2009年6月8日、IWGPヘビー級王座として、地元の関西は大阪市に売り上げ金を寄付した中西は、こう語った。

「地元の関西は人情味のあるところ。ヤジも飛ぶが、その中に優しさがある。器用ではない自分のようなレスラーは、関西の客に育ててもらったといっても過言ではないんですよね……」

 口下手な部分もあったかも知れない。だが、その分、姿勢で見せて来た。頸椎損傷の重傷を負い、それでも約500日後にリング復帰を果たした際は、あのレジェンドに、こう言わしめた。「生き様に勇気をもらった」天龍源一郎だった。天龍が腰の手術に挑んだのは、中西が復帰に向けて練習を始めた頃だった。

 トップ中のトップという選手ではなかったかも知れない。だが、最後の最後まで、ファン、特に会場で観戦するファンたちにことさら愛されていた選手だと断言出来る。来たる2月22日、盛大な「中西」コールを送ろう。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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