2019/10/6 10:15

初のラグビー世界選抜に選ばれたプロレスラー!キツさは新日本道場以上!? W杯・盛り上がり最高潮!『ラグビーとプロレス』特集!

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初のラグビー世界選抜に選ばれたプロレスラー!キツさは新日本道場以上!? W杯・盛り上がり最高潮!『ラグビーとプロレス』特集!
5.0

日本、3連勝なるか!?


「視聴率18.3%」「視聴率22.5%」。なんのテレビ番組の数字だろうか?ピンと来た方も多いと思うが、今回のラグビー・ワールドカップの、日本戦、つまりは開幕戦のロシア戦(9月20日)、及び、アイルランド戦(9月28日)の平均視聴率である。特に後者のアイルランド戦は、週刊の全番組の中でも2位の高視聴率。瞬間最高視聴率では28.9%を記録している。その場面は、まさに、日本が勝利した直後であった。さすれば、今週10月5日におこなわれる日本vsサモア戦や13日におこなわれるスコットランド戦は、さらなる注目が期待出来よう。

 改めて、ラグビー・ワールドカップが熱い。そして、このラグビーと言えば、プロレスラー&格闘家とも、実はライン深きジャンル。我らがレジェンド、小橋建太は、プロレスラーになる前に勤めていた京セラでラグビー部に所属していたし、2012年には、“世界のTK“こと高坂剛がラグビー日本代表の臨時コーチに。アマレスでの用法を活かした、より効果的なタックルの入り方について伝授。真壁刀義は今回のラグビーW杯にあたってのPR動画に出演している。

 今回の当欄は、この日本全体の盛り上がりも鑑み、ラグビーとプロレスについて特集したい。

極めて多い、「プロレスラー志望」のラグビー関係者!


 のっけから言うが、プロレスラー志望だったラグビー関係者は、実は多い。山梨県において躍進目覚ましい都留興譲館高校ラグビー部の小高光監督は、中学までの憧れがプロレスラー。ところが、レスラーのかつての競技歴に柔道やアマレスに交じり、ラグビーがあることに注目。進学先でラグビーに専心したという。2002年より日本IBMの主将を務めた和嶋仁さんも同じで、こちらはラグビーからプロレス入りした阿修羅原に憧れてと直接的。名門・明治大学ラグビー部でプレイしていた際、怪我での長期欠場があり、それを取り戻そうと頑張っていたら社会人の主将まで登り詰めていたというから、まさにスポーツマン。熊本西高校ラグビー部の門脇永記さんは、熊本第二高校でラグビー部の主将まで務めつつも、卒業後の進路希望は、『新日本プロレス』。1980年代前半の昭和プロレス黄金期に、自身は高校生。アントニオ猪木への憧れを捨てきれなかった。ところが体重は94kgでも、身長が173cm。身長175cm以上という新日本の入門規定に引っかからなかった。そこで、「メキシコでデビューして、スカウトを待とう」と、まさに獣神サンダー・ライガーばりの発想をしたのだが、これには両親が猛反対。結果、日体大にラグビーで進学して、今があるのだという。

 どうも、こういう仕事をしていると、結果的にプロレスラーになれた成功譚しか聞かないので、それが当然と思いがちなのだが、その陰には、少なくともリングという夢は破れたこのようなケースも多数存在するのである。

ラグビーを辞めた理由。そして、プロレスラーになった理由


 さて、上記のケースを地で行き、実際、プロレスラーになれた男も。それがパンクラスでデビューした謙吾(渡部謙吾)だ。こちらも元々、猪木に憧れ、小中学生時代は水泳に熱中。ところが、ラグビー部を題材に1984年の伝説的なドラマ、『スクールウォーズ』に刺激され、高校からラグビーに熱中。すると、高校3年時には、高校日本代表に選出。進学先の大東文化大学では4年時に主将となり、この際、日本代表候補にも入っている。ところが、本人の中では、これはあくまでプロレスラーへのステップだったようで、社会人ラグビー部を擁する多数の大手企業からの破格の条件でのスカウトがありながら、結局、卒業と同時にパンクラスに入団。そんな大物ゆえ、デビュー戦は日本武道館でバス・ルッテンだったのも頷けよう(1998年9月14日)。年収は謙吾本人が言うには「40分の1」となったとか。とはいえ、そもそもの夢がプロレスラーだったため、本人は意に介さず。因みに、プロレス入りに関して母に言われた言葉は、「あんたは結局、小さい頃から変わらなかったね」だったそう。

 逆にプロレス前にワンクッション置くケースも。鈴木健三こと、現KENSOは、明大ラグビー部の大型ロックとして活躍。同部の合言葉である『前へ』を遵守し、1995年と1996年には早稲田大学を破って大学選手権の連覇に達成。その後、東海テレビに就職するも、たまたまクリーニング店にかかっていた新日本プロレスのカレンダーを見て、「また燃えてみるのもいいかも知れない」とプロレス入り。そのクリーニング店の店主が、新日本プロレスの関係者と懇意にしていたため、トントン拍子に話は進んだ。まさに『前へ』の気持ちの表れだったが、この2文字、今はKENSOの右足首にタトゥーとして入っている。因みに、その時のカレンダーには、木村健悟が映っていたという。

 現在も新日本プロレスで幅を利かせるバッドラック・ファレは、トンガ王国生まれだが、同国で認知されているスピーツと言えば、「ラグビーとアメフトくらい」だったため、3歳からこちらをやり始め、2002年に、山口県徳山大学のラグビー部に入部する形で来日。卒業後も実業団でラグビーをしていたが2008年、怪我で退団。2009年6月に新日本プロレス入りとなった。名ラグビー選手でもあったグレート草津を父に持つ息子・2代目グレート草津は、父同様、大学でもラグビーをしていたが、その3年時に、喧嘩に巻き込まれ、腕を骨折。「自分の身を守る技術が欲しい」と空手を学び始め、そこからのK-1入りとなったという。

 そして、父・グレート草津はと言えば、国際プロレスのエース格としての活躍も有名だが、ラガーマン時代の勇名はこれに勝る。高校卒業後、1960年より八幡製鉄に勤め、そのラグビー部を在籍5シーズンで4度の社会人大会制覇に導いた大型ロック(187cm、93kg)。100mを11秒2で走る俊足であり、1963年には日本代表にも選ばれたが、1965年には日本プロレス入り(その後、国際プロレスへ)。なぜラグビーをやめたかと言えば、「高卒でしょう?だから、ラグビーでいくら頑張っても、会社の八幡製鉄じゃ、係長止まりと思ったわけよ」(グレート草津)。

 なるほど。諸々の事情あるわけだが、では、そもそも前出のKENSOは、なぜ、ラグビーを辞めたのだろうか。今は一緒にお仕事をする機会もある本人に以前、聞いてみた。それは、「これならプロレスでもやって行ける」と新日本に入門してから思ったという、ラグビー部の、猛烈なシゴキにあったという。

“格闘球技”の猛烈な鍛錬!


「1、2年が先輩と話す時は、目線は先輩より下でなきゃいけない。だから、先輩が寝ながら話す時は、こっちは床に顔を付けるんです」とKENSO。どんな時もこれが鉄則だったため、風呂での会話が、こちらがカバのように目だけ出して応じなければならなかったという。他、合宿所の1階の公衆電話が主な連絡ツールだったのだが、先輩からの電話は3コール以内に取らないと、シゴキ(明大ラグビー部用語で言えば、“しぼり”と言ったらしいが)が待っていたという。先輩の部屋での1時間の腕立て。グラウンドでの果てしないランニングはもちろん、先輩の蹴ったボールを獲りに行き、戻って渡しというのをひたすら数十本……。新日本プロレスに入った時は、「正直、こちらの方が楽」と思えたという。

 同様なケースは八幡製鉄時代のグレート草津も。「草津より遅い者は罰則」とされロ―ドワークが課せられ、皆、我さきに草津を追い抜いて行ったという。とはいえ、これらは、当然、期待の表れ。草津が入社して5か月後の9月にカナダ遠征を控えていたため、なんとしても1年目の草津をモノにしたいがための猛稽古だったとか。その後の活躍は先述の通りである。

 そして、こんな嘱望をまさに一心に受けたのがラガーマン時代の阿修羅原、本名・原進であった。ご存知、天龍源一郎の無二の相棒として知られる男である。3歳年下の天龍を親分としてたて、自らは最前線(切り込み隊長)に立ち、ハンセンのラリアットの犠牲になったのも何度も観てきたが、ラグビー時代もまさにこの姿さながら。近鉄のラグビー部だった1971年の7月も合宿で、突然、監督からプロップというポジションを務めるよう言われる。プロップには支柱という意味があり、その通り、相手チームとスクラムを組む際、その先頭に位置する人物。当時の近鉄は9月に強大なパワーを有するイングランド戦を控えており、182cm、87kgの原は、こちらに打ってつけだった。ところが、原はこのポジションの経験がなかったため、合宿の4日間で、ひたすらスクラムの練習。馴れぬため首が傷つき、血が流れ、化膿し、そこにハエがたかったが、余りに慣れぬ重労働に練習が終わると腕が動かせず、そのハエをはらえなかったという。

 迎えたイングランド戦、監督は開始のホイッスル直前、原にささやいた。

「原、信じてるぞ」

 原の健闘により、日本は強豪イングランドとの2戦が、19vs27、3vs6の惜敗。イングランドを大いに慌てさせたとともに、『ススム・ハラ』の名前が世界にとどろく。気づけた1976年、日本人として初めて、ラグビー世界選抜のメンバーに選ばれていた。

 その後、後年は天龍を支え続け、そして1994年10月、プロレスも引退。1999年より、故郷長崎の諫早農高(母校)の筋力トレーナー、森山中学のバレー部の顧問、長崎県立農業大学の体育の非常勤講師を務めた原。意外にも、教え子たちや試合のデータや分析をノートに綺麗に記録していたが、その表紙には自らの字で、こう大書されていた。

「信頼してくれた人のために、人は頑張れる」

 原の信念だったという。

 究極のチームプレースポーツと言われるラグビー。その信じる力が日本を勝利に導くのを、願ってやまない。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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