2019/9/8 12:39

ライガー曰く「ヤングライオンは〇〇!」あのケンドー・カシンも内心感動?第12回大会開催中!ヤングライオン杯特集!

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9月4日より、第12回大会開催中!


 現在でも頻繁に利用される両国国技館が、プロレス会場として初めて使用されたのは、1985年3月9日のことであった。主催は全日本プロレス。このシリーズで初来日となるザ・ロードウォリアーズ(アニマル&ホーク)がメインで鶴田&天龍組と激突。セミでは長州力がブルーザー・ブロディと初めてタッグ対決をした(長州&谷津嘉章vsブルーザー・ブロディ&キラー・ブルックス)。ところが、知られる話だが、長州の試合は、ブロディがまるで長州を相手にせず、内容は空転。ウォリアーズの試合に至っては、3本勝負だったのにもかかわらず、2本目にホークがフォールを取られたことを不服とし、そこから大乱闘となり、3本目はなんと「試合不成立」でおこなわれず。会場のせいではないが、記念すべきこけら落としの興行だったがゆえに、今後のプロレスでの使用にどこか不安を残した。

 あくまで筆者個人の心持ちではあるが、そんな気分が一掃されたのは、約1ヶ月半後、4月18日の同所の興行であった。今度は新日本プロレスが団体初の両国国技館大会を開催。胸の空く名勝負が、この第5試合で展開されたのである。それに引っ張られたかどうかはわからないが、セミの藤波vsスーパー・ストロング・マシンも好勝負に。メインの猪木vsブロディは両者リングアウトだったが、『延長』コールなどの不満は聞かれなかった。こちらも、互いが死力を尽くした内容になったためだろうと思われた。

 その第5試合こそ、『第1回ヤングライオン杯』の決勝戦、小杉俊二vs山田恵一。まさに爽やかな一陣の風を吹かせるような内容となった同一戦は、その年の『週刊プロレス』の、ファン投票で選ぶベストバウトランキングにも顔を出している。

 あれから34年。9月4日より、『第12回ヤングライオン杯』が幕を開けた。歴代の優勝者を観れば、蝶野正洋、天山広吉、中西学など、後の新日本プロレスの核となる選手も多い。今回の当欄は、この『ヤングライオン杯』の魅力を総特集したい。

人員不足から行われた、第1回。


 大会名宜しく、新日本プロレスの若手選手、つまりはヤングライオン達がその力を競うリーグ戦としておこなわれる同大会。前述のように第1回がおこなわれたのが1985年。実は前年に、前田日明、高田延彦のUWF勢や、長州力、谷津嘉章のジャパン・プロレス勢が新日本プロレスから大量離脱しており、新日本としては、早急に若手の底上げを計る必要があった。その上でのリーグ戦開催となったわけである。期待にたがわず、先述のように第1回大会は決勝も含め、好勝負が続出。コンテンツの高い評価もあり、翌年、翌々年と、大会は続行。武藤、橋本、蝶野の闘魂三銃士なども、このリーグ戦を経て、力を蓄えて行った部分があった(※武藤は第1回のみの参加)。なお、今では信じられないことだが、80年代当時のヤングライオンには、個人の入場テーマ曲がなく、普通の試合の時は、無音、いわば、観客のざわめきや拍手が入場のBGMであった。しかし、このヤングライオン杯は若手の晴れ舞台ということで、選手の別なく、映画「ロッキー」のテーマや、ボニー・タイラーの楽曲、「ヒーロー」が入場のBGMとしてかけられていた。

 90年代には、1993、1994、1995、1996年と4回開催。この時期はアマレス・エリートの、中西、永田らを擁していたため、とにかく若手の選手層が厚かったのが特徴。「一生、ヤングライオンをやってなきゃいけないのかな……」という石澤常光(後のケンドー・カシン)のつぶやきが恨めしい(1996年3月)。また、90年代の他団体時代、並びに、若手中心のリーグ戦という、ある意味の敷居の低さもあり、他団体からの参戦選手も。1994年にはWARの平井伸和(後のヘイト)が参加し、3位に。1995年には藤原組から石川雄規が参戦している。

 この流れは、00年以降も加速し、2004年には、みちのくプロレスから湯浅和也が参戦し、準優勝(優勝は田口隆祐)。2005年に元リングスで、チーム・アライアンス所属だった伊藤博之が参戦。これまた準優勝している(優勝は後藤洋央紀)。

 同時に、2002年、ロサンゼルスに新日本プロレス・ロス道場が設立されたことで、こちらからの選手も襲来。2004年にはピノイ・ボーイと、チャド・ウィックス、2005年にはトミー・ウィリアムスが参戦している。今回のヤングライオン杯でも参加8人中、外国人選手が4人となっており、近年の新日本プロレスのグローバルさを嫌がおうにも感じさせるスペックとなっている。

船木誠勝のUWF入りにも、一役?


 さて、試合内容面だが、これはもう、若手の同士のケレン味のないファイトということに尽きよう。ただ、同時にもちろん激しさも。2005年の決勝戦では、チーム・アライアンスの伊藤が試合中、右肩を亜脱臼。すると後藤洋央紀は、右腕を絞め込む形で横抱きし、バックドロップ。伊藤は右肩で受け身をとらざるを得ない形となり、悲鳴をあげていた。戦前、「彼らの背負ったライオンマークには牙が抜けてますよ」と挑発していた伊藤への強烈なしっぺ返しだったが、それにしてもの後藤の冷酷ぶりに戦慄を覚えた。1993年大会では、この時から既に仲の良かった天山(当時は山本)広吉と小島聡が一騎打ち(3月13日)。マスコミもこの2人の懇意ぶりを知っていたため、その水を向けると小島は一言、「恋敵のつもりで戦います」。その意気込み通り(?)、セカンドロープからのエルボーで3カウント勝利を奪っていた。

 同時に注目したいのは、若手の新技披露の場になりがちな部分もあること。普段の前座の試合と比べて、格段にマスコミの注目も上がるため、選手の発奮もあると見られる。前出の決勝戦で後藤洋央紀は、リストクラッチアングルスラムを初披露。後に「地獄車」という技名になったが、この時の呼称は、「ゴー・トゥー・ヘブン」だった。技名を和名にしがちだった後藤ならではの改称とみられる。前回大会となる、2017年には、川人拓来が1回転してからの延髄斬りを披露。1985年には、船木誠勝(当時、優治)が、コーナーに詰めた相手の胸元を蹴って一回転する、初代タイガーマスクばりのサマーソルトキックを成功させる。ところが、船木が着地した直後、後の有名マスクマンである山田恵一がそのままコーナーから飛び出てラリアットを炸裂。すると船木はヘソを曲げてしまい、試合後、「あんなことするなんて!だいたい僕は、グラウンド技の方が得意なんですよ!」と言い、2度と同技を披露しなかった。後にUWF系団体に行く船木だけに納得だが、考えてみれば山田も罪作りな部分がある?

 また、1993年の決勝進出戦では、西村修が珍しくムーンサルトを炸裂。実は当時、武藤敬司の付け人であり、同技を使うよう、しつこく言われていたという。「著作権を持つ武藤さんから、使えと言われまして」と試合後に語った西村。同技の披露も、結局、この1度切りに終わった……。

福田雅一が見せた、最後のレスラー魂


 マット史に残る印象的な出来事や場面も。第1回大会では、負傷欠場の野上彰(現AKIRA)に代わり、船木誠勝が出場。船木は実はこのリーグ戦でプロデビュー。15歳という、(当時)史上最年少でのデビューとして話題となった。

 1996年の決勝大会では、頑固者として知られる石澤常光が永田裕志を下して優勝したが、試合後、退場しようとする永田を呼び止める。そして、優勝賞金の巨大パネルを2つに割ると、一つを永田に手渡した。「(みんな、頑張った)価値は一緒だから」という石澤の試合後のコメントが、大会の充実ぶりを物語っていた。

 2000年の大会では、公式戦の初戦で悲劇が。福田雅一が柴田のフライングエルボーを不自然な形で受けて昏倒。そのまま意識を失い、5日後、逝去。この日、大会の公式戦(vs鈴木健三)があった柴田は、敗戦し、退場する際、振り向いてリングを指さし、「俺の居場所はあそこしかねえんだよ!」と絶叫した。また、これは語られることが非常に少ないのだが、福田は前出の柴田のフライングエルボーで倒れた後、柴田にカバーに入られるが、これをカウント2でキックアウトしている。既にこの時。意識を失っていたという見方もあり、レスラーとしての本能が3カウントを許さなかったのだと思わざるを得ない。なお、福田はこのリーグ戦を棄権ではなく、不戦敗扱いとなり、最後まで大会に参加したという処置が取られた。

 獣神サンダー・ライガーは、ヤングライオンについて、こう表現している。

「ヤングライオン。それは太陽だよ」

 若い魂の煌めきがリングを熱く照らし出すことを、願ってやまない。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

コメント

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  • 大会日時は全く違いますが、IWGP王者決定トーナメントに山田恵一選手が出場した際、ロッキーのテーマで入場した場面を憶えているのですが、理由が分かりました。

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