2019/7/28 12:37

亡き三沢がリングネームに込めた真意!青木との意外な再会!青木追悼興行で限定復帰!太田一平とは?

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亡き三沢がリングネームに込めた真意!青木との意外な再会!青木追悼興行で限定復帰!太田一平とは?
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フリーとして、全日本プロレス・岡田佑介と一騎打ち。


 6月3日の訃報から、はや50日以上。全日本プロレス『青木篤志追悼大会』の全カードが7月17日、発表された。8月11日、後楽園ホールにおいておこなわれる同大会だが、その中に、あまりにも懐かしい名前があった。『太田一平』である。

 NOAHファンならご存知だろう。元同団体所属の若手レスラーであり、しかも青木とは同期、そして同日デビューでもあった。さらに、2009年6月に逝去した、故・三沢光晴の最後の付け人でもある。だが、太田自身も、この悲報の4ヶ月後の2009年10月4日に引退発表。以降、NOAH関連、ましてや青木の最後の所属だった全日本プロレスなど、目だった表舞台には出て来ていない。つまりは久々の復帰となり、しかも今回のみという限定のそれとなるのだ。

 太田一平とは、いかなる選手だったのか。青木との関係も含め、振り返りたい。

1990年6月8日の三沢vs鶴田を観て、三沢の虜に。


 1982年、山梨県甲府生まれ。中学2年より、レスリングのフリー・スタイルに打ち込み、山梨学院大学卒業後、2005年3月、NOAHに入門。そして、同年12月24日、ディファ有明におけるクリスマス興行で、他の同期の新人と4人で同時デビュー。これ自体も語り草になっているが、さらに、抽選会によるカード決定だったため、太田は望外の組み合わせが実現。青木と組んで、三沢&田上との対戦となったのだ。つまり、太田は繰り返すが同日デビューはもちろん、青木の最初のタッグパートナーということになったのだった。

 結果はもちろん完敗(11分20秒、田上の喉輪落としで太田がフォール負け)。とはいえ、太田は田上にドロップキックを放つなど、本人が、「一番明るくて目立つ色」と選んだ黄色いトランクス姿で大健闘。また、試合中、面白いシーンが見られた。田上が太田に片逆エビ固めに入ると、三沢がそれを救出したのだ。実はこの太田、新弟子の頃より三沢の付け人。だったので、三沢がつい、親心を出しての救出劇となったのだった。

 当初は本名の太田佳則でデビューも、翌年5月20日の新潟大会より、リングネームを太田一平に改名。理由は三沢から酒の席で、「お前は一平という顔にしか見えない。どう考えても二の線じゃないんだし、改名しろ!」と言われたから。実際、2007年4月、DRAGON GATEのCIMAと絡んだ際には、「一平ちゃん!一平ちゃん!何が一平じゃ!カップ焼きそばか!」と、リング上のアジテーション、及び試合後のマイクで名前をネタにされている。おまけに太田のフェイバリット・ホールドはエアプレン・スピンやネックブリーカー・ドロップと、クラシカルなそれ。これは太田自身の好みゆえ、三沢はそのあたりも汲んだということなのだろうか。だが、この一平なる命名、実はもう一つの意味があった。「平らなところから1番を目指せ、と。平らなところからなら、もう落ちようがないんだから」(三沢)

 事実、一平は期待に沿い、頭角を現して行く。

『パンチ軍団』では、『若頭』とされた太田だったが……。


 2006年11月29日、デビュー1年未満で、シングル王座に挑戦。白GHCベルトではあったが、王者・志賀に挑戦した経緯からしてふるっている。この年、6月の選手会興行で、志賀率いる『パンチ(パーマ)軍団』に強引に入団させられ、泉田純至とともに、パンチパーマに。こちらはすぐに脱退ということになったが、5か月後に白GHC王座への挑戦を直訴すると、それこそキャリア的には未熟なものがありつつも、志賀は快諾。理由は、「一度でもパンチ(パーマ)になってくれたから」。実はこの日の会場は、志賀の地元だった(仙台サンプラザホール)。タイトル戦の告知も、地元新聞の『河北新報』に載るほどで、くみし易い相手をという志賀の計算もあったのかも知れない。ゆえに、志賀の方から太田に、「なんでも好きなルールを付けていい」と提案すると、太田が妙案を。「場外に落ちたら、その瞬間に負け」という決着方を申し出たのだ。いわゆる『オーバー・ザ・トップロープ』という奴だが、いざ試合が始まると、太田は意外な行動に。なんと、より落ちやすいように、トップロープを緩め始めたのである。そして、得意のエアプレン・スピンで、場外に志賀を落とそうとするが、志賀もレフェリーを掴んで、なんとか落下を阻止していた(レフェリーも一緒に回っていたが)。結果は志賀絞めから落とされてのフォール負けだったが、存分に存在感を見せつけたのである。

 そして、続く翌2007年6月の選手会興行では、太田はパンチならぬスキンヘッドで登場。「遅刻が多いのをとがめられて」(太田)という自主的なものだったが、この日おこなわれた6人タッグトーナメントでは、なんと優勝。パートナーは丸藤と潮崎であり、太田は2人に比べれば非力ゆえ、逆にその頑張りで場内を「一平」コールで埋め尽くしてみせた。

 さらにこの年末の12月23日には、師匠の三沢と一騎打ち。結果は完敗だったが、フィニッシュは、タイガードライバーから強引に引きずり起こしての、エメラルドフロージョン!三沢の太田への愛情が、逆に見て取れた瞬間だった。また、エアプレン・スピンで回された三沢が酔拳のような動きからエルボーを放つシーンも。こちらも大いにファンを沸かせ、太田一平、ここにありというインパクトも残して見せたのだった。

 2009年4月12日には、健介オフィスで、中嶋勝彦とシングル戦。敗れはしたものの、ホームタウンマッチのメインであり、内容面を含め、太田への大いなる信頼と期待がうかがわれた。

 ところが4月22日に仙台の試合で下あごを骨折。長期欠場の運びに。その期間に、あの悲劇が起きたのである。

 2009年6月13日、三沢光晴、リング禍で急死。

太田の心を開けさせた青木


 太田の怪我により、当時の三沢の付け人を先代の鈴木鼓太郎が務めていた中での悲報。三沢に可愛がられ、心酔し切っていた太田は、以降、鬱状態のようになってしまい、朝、練習に行こうとすると、嘔吐してしまう始末。普通にしていても、自然と涙が出て来るのであった。実はこちらも三沢の紹介で、2008年11月に、女子格闘家の川畑千秋と太田は結婚。その妻すらも見かねて、「そんなに辛いなら、辞めたら」と助言するような状態だった。

 挙句、結婚を機に合宿所を出て得た新居も捨て、太田は実家のある山梨に帰ることに。誰とも連絡をとりたくなかったのだ。故に、携帯番号も変えた。NOAHやプロレス業界、いや、大袈裟に言えば東京で出会った全ての人達との連絡を断ったのである。

 そして、実家で無為な日々を過ごす太田。一種、外界から遮断されたかのような生活模様。そこにやって来たのは、意外な人物であった。同期の青木と、1年先輩の平柳玄藩が、太田の実家を探し当てて、やって来たのだった。青木は言ったという。「辞めるというならしょうがない。だけど、一度くらいはちゃんと挨拶をしてからの方がいいんじゃないか?」青木の言葉に意を決した太田は、当時の社長である田上に引退を直談判。田上からは慰留されたが、結局、翌年4月までの契約も、10月までとしてもらえ、完全引退となった。

 以降、区切りがついた太田は、警備会社に就職。7年後には主任にまでなり、また、三沢の死から3年後の2012年よりは、地元・山梨プロレスのコーチも始めた。妻の上がるリングである女子団体『CPE』のリングにも、折を見て姿を見せている。そして、自身はボディビルに勤しみ、2015年には山梨県の一般の部で優勝を果たした。だが、それもこれも同期である青木が、落ち込む太田の実家を探し当てるほどの情を持って接したからに他ならない。だからこその今回の限定復帰となったのだろう。

 当日の太田の勇姿は、青木との永遠に終わらぬ友情の証。ぜひ目に焼き付けたい。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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