2019/6/24 7:35

石井へのメールの意外な助言!引退試合でなくファイナル・マッチの理由!引退・長州力

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石井へのメールの意外な助言!引退試合でなくファイナル・マッチの理由!引退・長州力
4.5

長州&越中詩郎&石井智宏vs藤波辰爾&武藤敬司&真壁刀義で引退試合


 インタビューしにくいプロレスラーとしてトップにあげられるのは、おそらく長州力だろう(木戸修もかなりのものだが)。過去、先輩や同輩や後輩たちが、「上手くいかなかった」とボヤくのを何度も聞いてきた。Nスポーツの某記者など、相性が合わなかったのか、開始5分で、「これ以上プロレスの話、聞くな!」と凄まれたという逸話がある。

 さて、不肖・筆者も昨年、初めて長州選手の対面インタビューをさせて頂いたのだが、まあ、こっぴどくやられた印象である(苦笑)。基本的に、プロレスの話をしないのである(大のバラエティー番組好きだけに、こちら方面から攻めて行く方が無難であった)。これを他のプロレス関係者(OB)に言うと、「でも、昭和の時代は、長州選手に限らず、みんな話さなかったけどね。長州はそういうスタンスを崩してないんだよな」と返され、意を得た気がしたのを覚えている。

 長州力が6月26日(水)、後楽園ホールで2度目の引退をする。指定席の前売りチケットは数日で完売し、2月26日に追加発売された立ち見席も即日完売。当日は全国27の映画館でライブ・ビューイングも開催と、まさに上半期最大級の注目興行となっている。

 昨年より、長州に関する書籍が次々と発売。それらにも微力ながら携わらせて頂いた筆者ではあるが、なにせ本人の言質がなかなか取れぬゆえ、関係者の証言で浮かび上がらせる形にしたことも。引退を直前に控えた今回の当欄では、そのメインで長州と絡む選手たちを軸に、長州力という選手を照射したい。

越中とは、シングル3勝0敗の長州


 先ずパートナーからいってみよう。越中は1985年に新日本プロレス入りし、1990年には、藤波辰爾率いるユニット『ドラゴン・ボンバーズ』に加入したが、いつしか長州と昵懇に。背景には、1992年より越中が反選手会同盟を結成。翌年にはこれを平成維震軍に改称し、1994年11月からは新日本と別動体でシリーズも組むのだが、この時、本隊の現場監督であった長州と徐々に胸襟を開いたようだ(この翌年には、長州は越中と髪切りマッチを行い、敗戦も)。2003年に旗揚げされた長州の団体、WJにも参画。この時、元は新日本の社員である越中夫人も同団体のスタッフとして参加している。同年7月13日には、2人でナイターを鑑賞するという珍しい機会も。試合は阪神―巨人戦だったが、越中は大の阪神ファンとして、長州は広島ファン。どうやら、テレビ局側の招待だったようなのだが、試合は雨天中止に。予定されていた赤星憲広、藤本敦士(阪神タイガース)との対談はおこなわれたが、先方は予定の変更もあり、遅刻気味に。待っている間ムッとする長州を「なだめるのに必死だった(苦笑)」とは、当時の越中の弁である。個人的には2010年5月30日、新体制となった『ハッスル』に2人で参戦したのだが(長州&越中&大谷晋二郎vsアイアム℃&アーモン℃&ジャイアン℃)、試合後、コメントを求めると長州はそれを無視し、すると、傍らにいた越中が、口元に指で「×」マークを作ったのが強烈に印象に残っている。エンターテインメント系プロレスへの長州の気持ちを越中が代弁するような形であり、少なくとも、目指すプロレス像の本質に、変わりはなかったのではないか?

 石井については既にあらゆる媒体で語られているように、WJ時代の長州の直弟子となる。新団体WJの旗揚げに向けてのサイパン合宿の練習パートナーを探していた長州に、『週刊ゴング』記者が、元は天龍の付け人だった石井を推薦。だが、長州との最初の会話で、石井は出鼻をくじかれる。「お前、今、プロレス、楽しいか?」「はい。楽しいですね」「楽しい?そんなに甘い世界じゃねえよ!」おまけに、動きをチェックするための石井の過去の試合ビデオが始まると、5秒でそれを止めてしまう長州。曰く、「何で相手に真っ直ぐ向かって行かないんだよ。プロレスは闘いだろ!」ビデオは、ゴングと同時にリングをさりげなく半周する石井を捉えていた。

 以降は、長州のイズムを愚直に体現して来た感のある石井。石井の誕生日に長州から届いたメールには、祝福の言葉とともに、『女性には、もっと優しくするように』と付記が。リング外では、ひょっとして長州以上に素っ気ない石井なのかもしれない……。

武藤とは、シングル2勝2敗の長州(ムタ相手含む)


 冒頭に触れた長州選手とのインタビュー中、数少なく、長州選手がそのレスラー像に触れてくれたのが、今回の対戦相手の一人である武藤敬司だ。語るには、「とにかく俺とはリズムが合わない。やりにくい」。2人は1990年5月24日の初シングルで好勝負を演じているが、確かにそれ以外ではほとんど記憶にないような……。挙句、1992年8月の長州vsムタではムタのムーンサルトにフォール負けした後、リング上で消火器を噴射される始末に。この時、長州は、「あんな奴、いるのか?」というコメントを残した。これは当初、消火器攻撃のことを言っていたかと思ったのだが、振り返ると、何かあるとムタがすぐ場外に転がり落ちるなど、全体的に試合自体が噛み合っておらず、そのムタの闘い方を指したものなのだと今では思う。さりとて、長州の武藤評は高く、『素質』と『素材』の話をした際、「俺は『素質』だよ。だけど、武藤は、『素質』と『素材』にも恵まれていて、そういう選手は数えるほどしかいない」と、含蓄のある言葉を残している。

 そして、今回の最大の注目となるのが真壁だ。若手時代より長州に可愛がられて来た真壁。「練習は厳しかったけど、あの人は理不尽なイジメとか、絶対するタイプじゃなかったから」と過去インタビューした際も語っていた真壁。新日本入りにあたり、「半端な気持ちじゃ出来ないから」と、当時付き合っていた恋人とも別れた真壁。練習のハードさで知られる長州には敬意の念を持っていたようだ。それ故、長州へのアピールも多かった。2001年2月18日の両国国技館大会では、『長州&鈴木健三(現KENSO)vs天山広吉&小島聡』というカードが組まれていたが、対戦3日前に健三が左手首を骨折。すると、真壁はパートナーの代役に立候補。長州に訴えるには、「どうして(デビュー2年目の)健三だけがプッシュされるのか?早く上の選手を倒して、名前を売りたい」。真壁は当時、既にデビュー6年目。目に涙を浮かべていた。長州はこの申し出を快諾。そればかりか1ヶ月後、天山&小島の持つIWGPタッグ王座に挑戦する際も、真壁をパートナーに抜擢。どちらも惜敗したが、真壁は真壁で、「長州さんは努力をわかってくれる人」というイメージがあったのではないか? 2004年10月に、長州がWJを経て新日本に復帰すると、永田が一騎打ちを要求したが、これに真壁も名乗りをあげた。この時の一言もふるっている。「オレが先にやりたい。今の新日本は正直者がバカを見ている。もっと一生懸命やっているヤツが注目を集めていいはず」。結局はどちらも一騎打ちは実現しなかったが、真壁の言葉には、長州を上位進出への餌としたい気持ちと同時に、「長州さんなら、受け入れてくれるはず」という底意も感じられよう。2010年7月19日、自身がIWGPヘビー級王座2度目の防衛に成功した際は、翌日、次期挑戦者を、「リキチャンマンだろ?師弟関係にケジメをつけておきたいんだよ」と指名。旧師・長州はこの時、既に58歳であり、現実味はなかったが、王者として、自分の成長した姿をぜひ見て、感じてほしいという真壁の気持ちは痛いほど伝わってきた。この1年前、長州と新日本道場でたまたま同舟した真壁は、長州から、「お前、何年もよく頑張ったな、入ってきたときは、これはもたねえなって思ったけど、よく頑張った。オマエはしっかり基礎をやって来たから強いんだ。ほかのヤツらとは現実が違うってわからせてやれ」と、初めて激励の言葉を貰ったことも明かしている。この2人の絡みが観れるだけでも、ライブ・ビューイングに行く価値は十分あるような気がする。

『引退試合』ではなく、『ファイナル・マッチ』の理由


 そして最後は永遠のライバル・藤波辰爾。1982年10月8日、くすぶっていた長州がパートナー(猪木を含むトリオ)の藤波に反逆したことから2人の抗争が始まり、ひいては長州のブレイクに繋がるというのが定説になっている。もちろん間違いではない。だが、今、この試合を見直すと重大な発見もある。試合中、藤波からのタッチを、何度か拒む長州。不和は見て取れたが、まだ、仲間割れとか、反逆の狼煙を上げるとか、そういう段階ではない。そして、この拒絶が何回かあったあと、意外なシーンが、長州が渋々だが、藤波のタッチを受け入れるのである。ところが、さらに驚きの展開が直後に勃発。タッチを受けて出て来た長州を、藤波の方が張ったのである。そこから仲間割れに至るわけだが、つまり、長州の反逆というよりは、「長州の横暴を藤波が許せなかった」ことから至った抗争ということになる。当然だが、藤波自身が応じなければ、2人の闘いに熱さはなかっただろう。当時の天龍のコメントを引用したい。「歯向かった長州も大したもんだが、受けて立つ藤波の侠気を買うね」

 最後に、長州が今回の一戦を、引退試合でなく、『ファイナル・マッチ』と称すことにこだわっていることを付記しておきたい。だから、引退セレモニーの類も、基本的にはおこなわれない予定である。「引退試合はしない」、これも長州選手自身が言ってくれたことであるが、その真意を問うと、こう答えてくれた。「前の(1度目の)引退が素晴らしかった(1998年1月4日・東京ドーム)。あれを超えるものが出来ると思えないから」

 文字通りの、ファイナル・マッチ。心して26日を迎えたい。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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