2019/4/7 12:49

猪木に振り回された?あの闘魂三銃士と深い仲!追悼・北尾光司

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猪木に振り回された?あの闘魂三銃士と深い仲!追悼・北尾光司
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2月10日、55歳で逝去。


 現場で取材する時、カメラマンが、客の視線と別方向を意識することがある。例えばそれは、メインのタイトルマッチの決着直後だ。大多数の客は、リング上でおこなわれているやり取り(ベルトの贈呈など)を観るのだが、ここでカメラマンは、入場ゲートを見る。たった今、全試合が終了したのにである。するとどうだ。そこに選手の姿がある場合があるのである。次のタイトルマッチに名乗りを挙げたい選手が、そこで虎視眈々と、リングに突入する瞬間を待っているのだ。その後、同選手はタイミングを見計らいリングに上がり、次期挑戦をアピールするわけだが、それらにいち早く目を向け、写真に収めるカメラマン。なるほどと思い、カメラを兼ねた記者だった筆者も、ずいぶんと勉強になったものである。タイトルマッチに限らず、入場口で選手が試合を観ていれば、それだけでもドラマになり得ることも、同時に学んだものだ。ヤングライオン達の試合を観る、御年50を超えていたライガー、棚橋の試合を真剣に観る中邑etc。

 現在まで6回を数える『SUPER J-CUP』の第2回大会(1995年)でも、極めて印象的なシーンが観られた。会場の両国国技館入場口奥で、ある試合に熱視線を送る選手がいたのだ。その身長、ほぼ2m。どう見てもスーパーヘビー級の体躯だ。ご存知、ジュニア戦士のオールスター戦ながら、だが彼は、その試合に真剣に見入っていた。当時、自らの団体、武輝道場を背負っていた、北尾光司であった。視線の先には、まさに同道場からデビューした自らの愛弟子、望月成晃の姿があった。

 その北尾光司さんの訃報が、さる3月29日、入った。横綱、プロレスラー、格闘家と、流転かつ、毀誉褒貶に彩られた人生だったように思う。今回の当欄は、特にプロレスラー以降の北尾氏にスポットを当て、追悼したい。

実はかなりのプロレスマニア


『私の友人など、相撲をやらせたら、今でも輪島の方が強いが、こと、プロレスなら、北尾の方が強いと、妙な論法を持ち出す始末である。髷なんて、さっさと落とそうよ!』

 現在は高名となったスポーツ・ジャーナリストの二宮清純さんが、1988年、『週刊ゴング』にこんな大意のコラムを書いていたが、時はまさに、北尾が横綱廃業問題で揺れていた時期。その素材の良さと、まだ24歳という若さから、当時より、プロレス入りを期待する声は、本当に多かった。そして、1990年2月10日の新日本プロレス・東京ドーム大会でデビュー。入場時の、サングラスに鋲付きの革ジャン姿に、「お前、渡哲也じゃないんだから」という野次が飛んでいたというのは、当日、観戦していた筆者の知人からの情報だが、件のデビュー戦は、知られるように酷評の嵐。翌日の東京スポーツには、『これが北尾の11大必殺技だ!』と写真入りであったものの、内訳は『パンチ』『キック』『チョップ』etcとなっており、妙な温度差を感じたものである。

 当時、筆者が着目したのは、そのプロレス好きな部分だった。というのも、デビュー前の公開練習で、北尾は“7大バックブリーカー”を披露。その中に、幻の技とされる、マルタ式バックブリーカーが入っていたのである。平たく言うと、ダブルアーム・スープレックスの体勢から背中に担ぎ上げ、その後、首も決める背骨折りだが、現在、インターネットで画像検索出来る中でも、パーフェクトな形のものは見つからないほどの高難度の技である。実は北尾も、結局、練習で披露出来ただけだったが、この技を、名前を含め、北尾が知っていたことに、先ず驚いたのである。その後も、足を4の字に決めてのバックブリーカーや、両足を一緒に持って片脇に抱える変形逆片エビ固めも練習で披露。実戦でも、腕で相手の足を4の字に決めてジャイアント・スイング風に振り回すオリジナル技『サンダーストーム』では、当時の新鋭、ラリー・キャメロンを一掃。ビッグバン・ベイダーとの一騎打ちでは、相手をコブラクラッチに固めてから河津掛けを披露し、解説の山本小鉄をして、「おっ!なかなか上手いことやりましたよ!」と言わしめた。

 とはいえ、はなはだ私見にはなってしまうが、当時より、『プロレスラーは、苦労してのし上がって行くもの』という考えがどうにも刷り込まれていた筆者にとっては、急に大舞台でデビューして、それなりの位置で戦っている北尾を、ただ、淡々と客観的に見るしかなかったというのも事実である。むしろ、異変は、戦った相手レスラーから現れた。それも、対戦相手としての不満として。手合わせした試合で、「北尾については、喋りたくない!」としたスティーブ・ウィリアムス(1990年5月24日)、同じく不満を口にしたベイダー。こちらは具体的に、以下のように言った(1990年4月27日)。「ブレーンバスターを受ける時は、背中から受けないと、内臓を痛めるぞ」。同試合(北尾&長州vsベイダー&ビガロ)で北尾は同技を被弾。その際、足から着地してしまっていた。北尾の受けの未熟さを指摘したのだ。確かに、北尾が相手の技を食いたくないとするあまりに、動きがぎこちなくなる部分は、当時より多々見られた。ベイダーや他の選手にしても、北尾に怪我をさせたくて試合をするわけでもない。この時点での北尾は、まさに一流が集まる新日本プロレスのリングにおいては、招かれざる客だったのではないか。時の北尾は新日本プロレス所属ではなく、芸能事務所アームズに所属しており、年間21試合という契約だったという。名前に価値のある選手だということはわかるが、これではプロレスの上達に直結はしないこともうかがわれた。

 1990年6月26日には、武藤&蝶野vs橋本&北尾という、北尾にとって初の日本人対決が組まれるも、北尾がヘルニアとなり、中止に。その一か月後には、長州との口論の末、新日本プロレスを解雇。ただ、その人柄について悪く言う選手はおらず、中でも橋本とは、「真ちゃん」「光ちゃん」と呼び合う仲だったという。坂口征二社長(当時)も、「溶け込もうと、努力している」と評価していた。

流転の90年代前半


 1990年11月より、天龍源一郎を主格とするSWS入りも、翌年4月1日のジョン・テンタ戦でプロレスを冒涜する暴言を吐き、解雇に。これは、今だからこそ関係者各位の言質が取れているが、天龍がトップであることを快く思わない勢力が、北尾を焚きつけたものだったとされる。だからと言って、北尾の狼藉が許されるものでもないが。ただ、この年の2月、北尾のプロレスの才能の開花を思わせる試合があった(2月22日・天龍&石川孝志vsザ・グレート・カブキ&北尾)。小手先のテクニックや新奇な技に頼らず、ただ、体ごとぶつかって行くスタイルで、“ウルサ型”の後楽園ホールの客から大「北尾」コールを引き出し、マスコミもこの試合を絶賛。極めつけは、この試合を観ていたWWE(当時WWF)の要人が、その場で『レッスルマニア』への出場を要請したこと。事実、同年3月24日の『レッスルマニアVII』に、北尾は天龍とのタッグで出場している。それだけに残念な舌禍だった。

 翌1992年5月、『空拳道』なる空手の流派に属することになった北尾はUWFインターナショナルに参戦。ヒットしたわけではないが、フワリと浮き上がっての空中回し蹴りなど、驚異的な身体能力と強さを見せつけ、山崎一夫を一蹴。この時、UWFインターナショナルとは1試合400万円で3試合(つまり残り2試合)の契約をしていたが、空拳道側が金銭問題を抱え、破綻。つまり、同契約もなかったことになってしまった。しかし、UWFインターナショナル側は、あきらめず、以前の契約をたてに、交渉を継続。高田延彦戦を実現させた。この時の内実については、それこそ当時のフロントであった鈴木健さんから聞くことがあるのだが、特に北尾サイドのリアクションなどについては、書けない話も多い。だが、組織にも属さず、明確なマネージャーもいない北尾が、この一戦に乗り気でないことは確かだった。なお、高田戦がおこなわれたのは、10月23日だったが、これは、そもそも空拳道としていた契約が切れる当日だった。知られるように、北尾はこれに完敗。勝利した高田は、この年のプロレス大賞MVPを受賞した。

 次に北尾の名前が聴かれたのは、1994年の1月。自らの団体『格闘技塾 北尾道場』(後の武輝道場)を旗揚げ。弟子を取る形だったが、望月成晃や岡村隆志やTARUが巣立って行ったように、完全なプロ志向。練習の厳しさはそれこそ岡村がよく語ることだが、それゆえ入団に当たっては、親の承諾書が必須だった。そしてその旗揚げ戦(1月21日)、北尾は控室にあった黒板に、チョークでこう大書した。

『成功』

 プロの団体であることから、さもありなんと思いきや、記者が真意を問うと、北尾は言った。

「誰一人、怪我人が出ないようにという願いを込めました」

 北尾の人間的変化を口にする関係者が増えて来たのは、この頃からだった。

ユーモア溢れる、猪木評。


 岡村が勘違いで1時間待ち合わせに遅刻しても、「俺が間違えたのかと思ったよ」と笑って許した。翌年、愛妻との間に子供が出来ると、「子育ては共同作業」と、らしくなく相好を崩した。冒頭の望月は、大谷晋二郎を相手に完敗も大健闘。北尾は愛弟子を笑顔で出迎えた。筆者が目撃出来たのはここまでだったが、その望月が同大会での輝きを評価され『週刊ゴング賞』に輝くと、北尾は自分のことのように喜んで、後日祝宴を開いたという。極めつけは、1996年4月に初のヴァーリ・トゥード戦で、絶対的有利とされながら、完敗した時。納得した表情で、「負けて覚える相撲かな…。これが第一歩。いい勉強になった」弟子や守るべきものが増えたことが、内面を柔らかに、そして豊かにして行った。

 自分の団体と並行しつつ、天龍源一郎率いるWARに参戦。「ウチは手加減なしですけど、大丈夫ですか?」と天龍に聞くと、「全然構わない」と応じられ、実際、天龍の顔面蹴りとグーパンチを食らった。「他の団体にウチの若手が上がると、『こんなに楽でお金貰っていいの?』って言うほど」(北尾)、WAR側の攻めは手厳しかったという。それを、「嬉しかった」と言う北尾。それこそ手加減なしのファイトで天龍の鎖骨を折ったりもしたが、天龍は、「さすがは北尾だ」と返した。四角いリングでの頭角の評価は、1995年5月の新日本プロレス・福岡ドーム大会における、「猪木&北尾vs長州&天龍」のマッチメイクで明らかだ。ただ、この時も、昵懇だった記者が、同一戦への気持ちを問うと、「このカードを実現させるために、いろいろな人が時間をかけて動いてくれたんだ。いろんな事情があるんだから、そんな軽々しいことは言えないんだよ」(『東京スポーツ』本年3月31日付けより)

 後年、この試合について語った時のことだ。猪木がタキシード姿で入場し、それを脱いで試合に臨むというパフォーマンスをしたのだが、知らされてなかった北尾は驚いたという。

「天龍さん長州さんを相手に一人でやらなきゃいけないのかと(笑)。タキシードを脱いだ時は、ホッとしましたけど、お次は全然、タッチしてくれないの(笑)。あげく、やられたら猪木さんから張り手を食らってね。それで目が覚めて反撃したら、猪木さん、『よしっ、俺に代われ』と……。猪木さんは、奥が深かったです(笑)」

 ベストバウトとしては、北尾&望月vs冬木&ライオン道(クリス・ジェリコ)(1995年4月30日)を挙げたい。この試合、北尾はそのパワフルなファイトで躍動。勝利するとマイクで言った。「冬木、今度はシングルだな!……そうだ、面白いものを見せてやるよ!」そして、リング上で軽快に地団駄。冬木のパフォーマンスを真似して見せたのだった。場内は大歓声。もう、受け身の下手な北尾でも、空気の読めない北尾でもなかった。

 1998年10月、PRIDEのリングで引退式。最後の試合はその3ヶ月前の7月19日の北原光騎戦。会場は新宿・ACBホールで、観衆は僅か150人。だが、2分44秒、北原を脇固めで下した北尾は言った。

「会場の大小ではない。力を発揮できる場であればいい」

 そんな言葉にも、やはり変化を感じさせた。

 先日亡くなられた俳優の萩原健一さんについて、付き合いのあった恩地日出夫監督が、こう書いていた。

「若くして人気者となり、世間が勝手につくりあげた虚像を押しつけられて、自分自身とのギャップに戸惑ってるうちに、自分に正直であろうとして、世間と衝突してしまう」(『毎日新聞』夕刊・4月2日付)

 なんとなく、北尾さんのことも思い出した。後年のプロレスのリングでの思い出が、充実したものであったことを、今は願いたい。少なくとも筆者には、忘れえぬレスラーだった。合掌。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

コメント

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  • ちょうどUWF本が続々出ているので、この人のインタビューも聞けるのではと思っていたのですが…Uインターでブック破られたのにPRIDE参戦ですから、北尾さんから見た高田延彦って興味深いですよね。
    角界、新日、Uインター、SWS、WARと渡り歩いてPRIDEで引退と、まさに90年代プロ格に翻弄された生き様ですが、記事にある通り晩年は丸くなってらしたんですよね。横綱になり海千山千のレスラーや格闘家を見てきた北尾さんですから持論や信念を持っていたはずなのに、引退後は表舞台に出ることを固辞していらしたのも気になります。
    お疲れ様でした。お悔やみ申し上げます。

    ID:9631759 [通報]
    (2019/4/8 4:34)
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