2019/2/17 18:12

麗しき(?)天山との友情史!J・J・JACKSじゃなかった、幻のタッグ名!引退・飯塚高史!

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麗しき(?)天山との友情史!J・J・JACKSじゃなかった、幻のタッグ名!引退・飯塚高史!
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飯塚、鈴木みのる、タイチvs天山、オカダ、矢野で引退試合!


 取材慣れしている記者でも驚く事件というのが、プロレス界では多発する。中でも、リング内で起こったその類で、今でも忘れられない思い出が以下だ。

 2008年当時、筆者は『週刊ゴング』の後発雑誌が運営するサイトで週刊連載を持っていた。基本は原稿をメールで担当に送り、担当が(余裕があれば)その感想を返す、という繰り返しだったのだが、2008年4月27日の夜、ちょっとした異変が起こった。突然、担当が仕事と関係ないメールをして来たのである。仕事のスパンとしても、イレギュラーな曜日に来た一通だけに、(なんだろう?)と、開ける際、ドキドキしたのを覚えている。人間、こういう時は、自分に寄せてマイナスなことを考えるもので、様々な悪い予感が駆け巡った記憶も鮮明だ。(この間の原稿が、マズかったのかな……?)(連載終了のお願いとか?)(それとも、サイトの休止とかかしら?)メールの文面には、こうあった。

「本日、飯塚が天山を裏切った模様です!これには意表を突かれました!!」

 プロレスを見慣れてるはずの担当にとっても、それほどのニュースであり、衝撃だったというわけだ。

 飯塚高史が、来たる2月21日、後楽園ホール大会で引退する。それこそ前出の文面時よりの天山への裏切りと、そこから11年の恩讐を越えての復縁の可能性が今、取り沙汰されているが、飯塚の歴史は、それに止まるものではない。なにせ、入門時から数えれば、新日本一筋34年。生え抜きの現役戦士では、ライガーに次ぐ古参なのだ。

 今回の当欄は、この飯塚の足跡を辿り、引退へのはなむけと致したい。

早熟だった?80年代


 1966年8月に、日本通運のサラリーマンだった父、誠の次男として誕生。生まれた時の医師の言葉が、将来を予見させた。「この指を見て下さい。この子は必ず大きくなります」 言葉通り、幼稚園から頭一つ抜ける巨漢だった飯塚。スポーツも万能で、小学6年生時には、地元・室蘭の少年野球チームで、4番でキャプテン、かつエースに。いわばスポーツ・エリートだった。

 新日本入門は1985年の5月。約1年半後の1986年11月2日にデビューしたが、彼のデビュー戦の模様は、当時の2大専門誌『週刊プロレス』にも『週刊ゴング』にも載ってはいない。少なくとも、デビューは注目されぬものだったのだ。

 だが、風向きが変わる。1989年5月25日、いきなり異種格闘技戦にチャレンジ(vsハビーリ・ビクタチェフ。惜敗)。「なぜデビュー3年にも満たぬ飯塚が?」と、当時も首をひねったものだが、背景には時のマット界状況があった。1988年5月に第二次UWFが旗揚げ。一大ブームを起こす中、翌1989年4月には、そこに新日本プロレスから、鈴木みのるが移籍し注目を浴びる。みのるは飯塚の2年後輩だった。飯塚抜擢の理由について、当時、このマッチメイク勘案にも加わった田中秀和リングアナはこう語っている。

「怒りです。移籍した者だけ大きく取り上げられる事に対する怒り(中略)。自由な戦いを求めて移籍した?それを“素晴らしい”と書くマスコミ。んじゃ残ってる選手は何なんだい。(中略)うちの若手、選手みな頑張ってますよ」(『週刊プロレス』1989年6月13日号)

 努力していた飯塚に対する褒美の面もあろう。だが、同時に、「(UWFに行かなくても、)ウチにはこれだけ凄い若手がいる」というアピールでもあったのだ。いわば新日本の期待の星としての出陣。事実、この異種格闘技戦直前、飯塚は猪木とタッグを組む栄誉も与えられている(5月22日・猪木&飯塚vsビッグバン・ベイダー&イタリアン・スタリオン等)。果たして飯塚は同異種格闘技戦で大健闘。惜敗はしたが、本来、テレビ中継される予定がないながら、急遽、同試合も放送され、一躍インパクトを残す。試合後は珍しくマイク・アピールも敢行。「皆さん、今日は負けました。だけど、もっともっと練習して、もっともっと強くなりますので、また挑戦させて下さい!」

 以降、飯塚は波に乗る。7月には長州力と組んでIWGPタッグ王座も奪取。同年11月に後輩、鈴木みのるは第二次UWFの東京ドーム大会でモーリス・スミスと異種格闘技戦をおこなうのだが、強敵ゆえ、大苦戦。客からこんな野次が飛んでいる。「そんなんじゃ飯塚に負けちゃうぞ!」

 この時期、飯塚は、まさに新日本サイドの希望の象徴だったのだ。

新日本道場の、強さの象徴に


 1991年5月より海外武者修行に出発。翌年3月、欧州を中心にした海外武者修行から帰国。新日本プロレス20周年記念興行の横浜アリーナ大会(3月1日)で、凱旋挨拶の場が設けられたこと自体、期待の高さを物語る。スーツ姿で、「蝶野、橋本、武藤、馳、佐々木!俺はお前らにシングルで挑戦するぞ!首洗って待ってろ!」と高らかにマイクで絶叫。特に橋本とのシングル戦では圧倒的な強さと美しいブリッジワークを中心とした多彩な攻めを披露。解説のマサ斎藤が、あれよあれよと蹂躙される橋本を「あきれ返って声出ないよ!」と揶揄するほどだった。結果は惜敗ながら、逞しく、ショッキングピンクのトランクスが似合う引き締まった肉体はスター性十分。未来を楽しみにさせたのだが、その後はよく言われるように、中堅に甘んじてしまった。馳浩が1995年、国政に活躍の場を移すと、そのまま道場のコーチ役になったほど、実力は折り紙付きだったのだが。

 その後も、山崎一夫とIWGPタッグ王座に就いたり、小川直也、村上和成のUFO軍を迎撃したりと、ピンポイントでは光るのだが、自らがリングの主流になるには至らず。よく取材させて頂く当時の仕掛け人、永島勝司氏の、こんな悔恨も思い出される。

「惜しかったなあ、チャンスは与えたけど、活かしきれなかったよな、ハンサム・タワーズ」

「……ハンサム・タワーズ?なんですか、それ?」

「飯塚と野上(彰)のタッグのことだよ」。

……2人のタッグは『J・J・JACKS』という名称なのだが、どうやら、他にもあった候補名だったようだ。

 山本小鉄は、稽古では強いのに本番で勝てない力士を例えて、こんな言葉を残している。「プロレスの世界でも道場チャンピオンと呼ぶべき奴がいる。若い選手では飯塚もそういう傾向がある。(中略)結局、性格のおとなしさというか、優しさが災いしている」(山本小鉄著『いちばん強いのは誰だ』)。

 元より、飯塚と高校で3年間一緒だった親友の辻田郁也さんも、青年時の印象からして、こう語る。「体は大きかったが、自己主張するタイプではなく、無口で物静か」(『道新TODAY』2000年11月号)

 それだけに、その背信劇に、我々は大きく度肝を抜かれたのである。そう、2008年4月27日の、天山裏切り事件である。

これが天山との友情(と、それが壊れる)過程だ!


 もともと、この2008年2月に、天山が、自ら頭領を務めていたユニット『G・B・H』から追放処分に。同ユニットの中心は真壁、矢野らとなり、天山が完全に孤立してしまったという背景があった。この孤独な天山に手を差し伸べたのが飯塚だったのだが……順を追って、みて行こう。

・3月9日(愛知):GBHに襲撃されていた天山を突如として現れた飯塚が救出。この時点では天山も「何でお前に助けられなきゃあかんねん!」と、ツンデレ状態だった。

・3月13日(和歌山):またもGBH襲撃時を飯塚に救出されるが、「あんな奴、俺、シカト!」(天山)とコメント。

・3月14日(広島):またまたGBHに襲撃される天山を救出した飯塚に、「そんなに組みたいなら、一回くらい、組んでもいいぞ」(天山)

・3月15日(豊岡):この日はGBHの邪道に飯塚が襲撃されていると、そもそも邪道とのシングルが組まれていた天山が現れ、救出する形に。試合後、2人はガッチリ握手。「こうやって俺のことを考えてくれてる人間がいるなら、組んでやっていいかと」(天山)、「これからの俺と天山、楽しみにしててくれ」(飯塚)

・3月16日(岡山):この日は襲撃された飯塚を天山が救出。そして、「俺一人じゃ……ヘルプして」(天山)とタッグを切望。

・3月17日(米子):騒動後の天山と飯塚が、この日、初タッグ。以降、連戦連勝。

・3月19日(静岡):真壁&石井組に勝利後、「この人を信じてやって行けそうな感じがあった」(天山)と飯塚に多謝。

・3月23日(尼崎):この日は天山の誕生日。すると、控室にケーキを持った飯塚が現れ、「ハッピバースデー、ディア・テンザ~ン♪」と独唱。照れ笑いで応えた天山だが、試合になると、外道のスーパーフライを浴びそうになった飯塚の上に自らが被さり救出。飯塚への感謝と愛を、行動で示す形となった。

・3月30日(後楽園ホール):今度は真壁の椅子攻撃を浴びそうになる天山に、飯塚が覆いかぶさって救出。会場は、大「飯塚」コールに包まれた。

・4月12日(蓮田):この日より、天山&飯塚の『友情タッグTシャツ』が発売。胸の表記には「FRIENDS」「友情」「HEY!BROTHER」と、熱き連帯のつるべ打ち。4月27日に行われるIWGPタッグ選手権:真壁&矢野vs天山&飯塚の調印式もおこなわれ、2人は肩を組んでポーズ。これは同Tシャツのデザインを真似たものだった。

・4月13日(後楽園ホール):岡田かずちか(現在のオカダ)を交えた6人タッグでG・B・Hに快勝。マイクで「タッグベルトを獲るのは、飯塚高史、天山広吉の友情タッグや!」とした天山。遂にチーム名も“友情タッグ”と公言した。

・4月16日(越谷):6人タッグでG・B・H軍に勝利。天山が、「このタッグを成功に導けば、世界のみんなにも友情が芽生えて、ハッピーな世の中になるんちゃうかな」とスケールのでかい決意を語る。

・4月26日:大阪の『闘魂ショップ』で、天山と飯塚のサイン会。100人を超えるファンが集まり、Tシャツも売れ、最後はファン達と、笑顔で記念撮影……。

 そして4月27日の大阪府立体育館大会。IWGPタッグ選手権:真壁&矢野vs天山&飯塚の直前の煽り映像では、上記の、これまで2人が友情を育む軌跡が上映。しかも、BGMは米米クラブの「君がいるだけで」。もちろん飯塚は『友情タッグTシャツ』を着込んで入場……。

 この展開で、この後起こることを予期出来た人は皆無に違いないと、もう本当に、改めて断言したい。冒頭の担当の驚き、むべなるかなである。そう、試合中、天山は、味方、いや、親友のはずの飯塚に、背後からスリーパーホールドを決められ、最後は真壁のキングコング・ニーで3カウントを聞いた。

 以降、飯塚はヒール一筋11年、現在に至るのである。

口より行動で見せて来た男


 数年前、ムックのお仕事で、新日本プロレスに飯塚のインタビューを打診したところ、こんな返答を頂いた。

「飯塚選手は、インタビューの類は、受けないことになっております」

 即答だった。本人の意向が大であるとの感覚を得た。知っての通り、今では咆哮の類しか発しない飯塚。元来無口なたちであることは前述で触れたが、貫き通すことも、並大抵ではない。

 成績優秀の傍ら、格闘技経験の無かった高校時代の飯塚だけに、プロレスラーになると聞いた時、周囲は驚いたという。親も猛反対した。だが、翻意させようとする担任教師に飯塚はこう言ったという。「自分で決めたことだから、自分のことを試してみたい」(前出『道新TODAY』)。卒業間近に新日本に電話をかけ、入門の意思を伝えると、「7月の札幌の試合に来て。そこでテストするから」。そこからの飯塚の行動は、普段の彼を知る家族を驚かせた。即座に荷物をまとめると東京へ飛び、押しかけ入門を試みたのだ。「初めて、本当にプロレスが好きで、プロレスラーになりたいんだと分かった」と、母の保子さんは語る。上京した日、たまたま後楽園ホール大会があったため、そこで入門テストを許され、そのまま合格。続く、夜逃げが頻発する地獄の新弟子時代については、本人がこう語っている。「プロレスをやると決めて入ったのに、簡単に辞めていく連中の方が不思議だった」(前出『道新TODAY』)。以降は、ファンの知るところである。

 天山との友情復活か、ヒールを貫き通すかで注目される引退試合。だが、どちらに転んでも、そこに飯塚高史というプロレスラーの美学を見たいと思う。ひたすらプロレスに邁進して来た情熱の、最後の発露と取れるからだ。ラストのリングを、注視したい。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

コメント

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  • 私には、
    飯塚ほど感情移入できるレスラーはいません!

    引退して姿が見えなくなるまで、
    思いっきり堪能させていただきます。

    ID:9641607 [通報]
    (2019/2/18 9:12)
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  • 怨念坊主となっても、あの体つき。
    Tシャツを着て上半身を隠すレスラーもいるのに、
    あの体に彼のプロ根性が見えます。
    古傷で技をかけたり受けたりはあまりできないけど、立派です!

    ID:10141689 [通報]
    (2019/2/18 11:19)
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  • 飯塚選手の歴史が整理されたよい記事ですね。引退試合は会場で観戦予定です。友情復活するよりも、最後までヒールを貫いてくれる方を期待してしまいます。

    ID:9853352 [通報]
    (2019/2/19 20:24)
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