2018/11/4 11:55

馬場を奮い立たせた一言!流血しやすいわけは?来年引退!アブドーラ・ザ・ブッチャーが日本を愛した理由!

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馬場を奮い立たせた一言!流血しやすいわけは?来年引退!アブドーラ・ザ・ブッチャーが日本を愛した理由!
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大会ポスターでは、馬場と2ショットに。


 こういった仕事をしていると、幼い頃から知りたかった(プロレスにおける)謎の正解に、ふいにたどり着くことがある。筆者にとって、例えば『週刊ゴング』に載った以下の文言がそうだった。

『ジャイアント馬場は、(アブドーラ・ザ・)ブッチャーが、全日本プロレスに復帰した時にかけられた一言が忘れられないという』

 プロレス評論家の、故・菊池孝さんによる、1992年頃のコラムだった。読者としては、その内容を知りたいところだが、それは載ってはおらず。筆者自身、今世紀に入ってからだが、菊池さんご本人に、水を向けたことがあった。すると、同氏はこう仰った。「なんだっけな。その時期、ブッチャーが馬場について言った言葉は、幾つかあるんだけど……。『俺もハッピーだが、馬場もハッピーだな』だったっけなぁ」進言はしなかったが、その言葉ではなかったように思う。というのは、それ以前の同氏のコラムに、そのブッチャーの言葉は載っていたのである。それなら改めて隠す意味がないし、馬場が直接言われた言葉なら、そもそも「馬場もハッピーだ」という表現にはならないような気がしたのだ。恐れ多い気もしたが、続けて聞いてみた。「他には、例えばどんな言葉を?」

「そうだな。『絶対に引退するな。俺もしないから』って言われたとも言ってたなあ。もう、鶴田や天龍がメインの時代だったし、引退を視野に入れていたんだけど、その一言で、思い直したって……」

 その馬場が逝去して19年。そう言っていたブッチャーも遂に引退する。それも、来年2月19日の、「ジャイアント馬場没後20年追善興行~王者の魂~」(両国国技館)にて。初来日から数えて、その来日回数140以上。日本では、(それこそ引退が近づくにつれ、何度も出る情報となろうが、)レコードを出したり、「サントリーレモン」のCMに出たり、「愛しのボッチャー」という漫画になったり、映画出演(『吼えろ鉄拳』)などなど……。ザ・デストロイヤー、スタン・ハンセンと並び、日本における、もっとも有名な外国人プロレスラーであると言って、過言ではないだろう。

 今回の当欄は、そのブッチャーという人間そのものにスポットを当てると同時に、なぜ、ブッチャーもこれほどまでに日本を大事にしたかを解き明かしてみたい。

生年は、1936年説も。


 本名、ローレンズ・シュリープ。ネイティブ・アメリカンの父と、アフリカ系アメリカ人の母の間に、9人兄弟の3番目として誕生。1941年1月生まれの、現在77歳で、子は2人、孫も既に2人以上いるという。

 デビュー時のリングネームは、ゼイリス・アマヤだったが、アブドーラ・ザ・ブッチャーに変えてから、徐々に頭角を現す。「他の選手の試合を観て、少しでも違うものを出そうとした」(ブッチャー)という。行き着いたのが、傍若無人のヒールスタイル。「誰もがやりたがらないことをやれば、成功に近づくし、マネー(金)も稼げる」とは、本人の言葉だが、

 そのスタイルが多いにウケたのが日本。1970年の初来日シリーズで大暴れ。現在は消滅した東京スタジアム大会(8月22日)でのジャイアント馬場との初の一騎打ちでは、グラウンドの外野方面まで使って場外乱闘。ケタ外れの暴れっぷりに、日本でも一気に注目の的に。

 その後の日本での活躍や存在感は、書くまでもないだろう。オールドファンには懐かしい、テリー・ファンクへのフォーク攻撃が炸裂した世界オープンタッグ(ザ・ファンクスvsブッチャー&ザ・シーク)、国道まで出ての“会場外乱闘”で、関係者が大目玉を食らった大木金太郎戦(※乱闘の相手は乱入して来たハーリー・レイス)、テレビ画面が突然ストップ・モーションになったテリー・ファンク戦(1980年5月)。画面が再び戻ると、テリーが胸から流血していた。ブッチャーがビール瓶の破片で突き刺したらしいのだが、その瞬間を見せぬための配慮だった。2000年代に入っても、ホームリングさながらの全日本プロレスで鈴木みのると組んだり、「レッスル1」で佐竹雅昭と相対し、果てはハッスルにも登場などなど、若いファンにも印象深いはずだ。個人的には、知己の雑誌社のインタビューで、額のギザギザとなった傷痕に、500円玉を差し込んだ姿が印象深い。なお、ブッチャーのこの額が、流血しやすくなっているのは確かで、それもそのはず、流血すると、縫合での治療はせず、医療用のボンドで自分で傷口を簡単にくっつけるのだとか。「次も流血し易いように」との底意を感じるのは、筆者だけではないだろう。

NWA王座にも、何度も挑戦しているブッチャー。


 2012年の全日本プロレスへの参加を最後に、以降、来日はないが、私邸のある米・アトランタでは悠々自適。超がつくほどの豪邸に住み、1994年にオープンしたステーキ・レストランも好調。実は地元では有名な名士でもある。もちろんプロレスラーとしても。

 それを感じたのが、1997年3月の、吉本興業のニューヨーク公演。当然、現地の客も会場に詰め掛けたのだが、この際、島木譲二さんが、得意のパチパチパンチを披露すると、なんとそこにブッチャーが現れ、同じくパチパチパンチを披露。アメリカの客への配慮だったが、つまり、ブッチャーの知名度は、日本だけのものではないのである。事実、WWEの殿堂入りも果たしている。

 では、なぜ、地元と言っていい、アメリカを主戦場にしなかったのか。前述の、「サントリーレモン」のCMで共演した、景山真澄さんの発言に、ふと、思い当たるものがあった。「撮影のときはみんなバスの中で着がえするのに、ブッチャーさんは(中略)かならずトイレに隠れて着がえるの」(「週刊ポスト」1980年5月30日号)……。

奥さんは、「韓国人と日本人のハーフ」(ブッチャー)


 先述のように、ネイティブ・アメリカンと、アフリカ系アメリカ人の間に生まれたブッチャー。いわば、混血。本人のこんな言葉がある。「ネイティブ・アメリカンからも、アメリカ人からも、仲間ではないとイジメられた」。プロレスラー・デビューした1960年代でも、まだまだ人種差別ははびこっていた。拙著「泣けるプロレス」にも書かせて頂いたが、和田京平の、こんな言葉がある。「90年代に入っても、ブッチャーもキマラもなかなか白人のいる外人控え室には入らなかったんだよね。で、通路に衝立やイスを用意して簡単な控え室を作ってあげると、こう言うんだ。『サンキュー、サンキュー』って。あのブッチャーが深々と頭を下げてね……」染みついた、差別されているという意識。トイレでの着替えも、そんな習慣を続けてきたからのものだったのかも知れない。アトランタの豪邸には、プールがついている。だが、ブッチャーは金づちで有名だ。泳げないのに、存在するプール。自己を大きく顕示したいという気持ちの裏に、積年の差別への反駁を見るには、筆者だけではあるまい。

 来年に渡っておそらく出続けるだろうブッチャー関連の記事。日本を主戦場にした理由について、日本の媒体では、過去、例えばこんな発言がある。「馬場と手が合ったから」「日本が俺を必要としたから」、そして、「マネーが稼げるから」……。だが、現地、アメリカの「ロサンゼルス・タイムズ」(2007年5月7日付け)では、日本定着の理由を、はっきりとこう語っている。

「(日本にいれば)偏見の目で見られなかったから」(※拙訳)

 ブッチャーの経営するステーキ・レストランの壁には、黒人の人権のために闘い続けた、マーチン・ルーサー・キング牧師や、モハメッド・アリの写真が飾られている。

 自身を隔てなく認めてくれる日本を愛し、引退の場に選んだブッチャー。盛大なブッチャー・コールで送りたい。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

コメント

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  • 一時期は体調が悪いという話も聞いていたので、今、ブッチャーさんが最近幸せで何よりです。自分の生まれた国と合わなかったり、いずらくて外国で自分の居場所があったという話は一般人でも聞きますね。今まで読んだ本などではビジネスマンというイメージもあったので、生い立ちや差別と日本への思いなど深い話も知れて良かったです。

    ID:9049013 [通報]
    (2018/11/15 22:54)
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