2018/7/20 16:48

長州も止められないケンカっ早さ。ビールを飲みながら解説?子供を作らなかった理由……。追悼・マサ斎藤

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長州も止められないケンカっ早さ。ビールを飲みながら解説?子供を作らなかった理由……。追悼・マサ斎藤
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7月14日、75歳で永眠。


 テレビ朝日のかつての人気番組『マツコ有吉の怒り新党』の中に、『新・3大〇〇調査会』というコーナーがあったのをご記憶の読者も多いだろう。「日本三景」「日本三大祭り」などの有名な3大括りに隠れ、一般に知られていない3大括りがあるとして、あるテーマに対し、そのトップ3を決定するという企画である。プロレスだけでも、大仁田厚と真鍋由アナの攻防や、『新・3大 豊田真奈美の技キレキレ試合』など、その数は8つにのぼっていた。

 さて、実はこちらの企画出しに協力させて頂くこともあった筆者だったが、その中に、こんなものがあった。『新・3大・解説、マサ斎藤の迷言』。現役を「げんやく」と呼んだり、「G1」を「ジーアイ」と発したり、果てはマスクマンを中身の名前で呼んだり……。筆者個人としては、ただ間違うという単純な笑いよりも、その豪快かつ破天荒な人柄に注目して欲しかったため、合間に、六本木でプロレスを馬鹿にした海外のアメフト選手を、ホーク・ウォリアーとともにエレベーターの中でKOしてしまったエピソード(うち一人は、試合を欠場せざるをえなくなった。しかも、このケンカを必死になって止めようとしていたのが長州!)や、いつも解説の傍らに、周囲をテーピングでグルグル巻きにした、謎の飲料があること、その中身がビールであること、などなどの逸話を入れ込むなどのアイデアを出したのが懐かしい。結局、没ネタになったが、会議でも、かなり良い線まで行った企画であった。

 マサ斎藤さんが逝かれた。相手の首に手をかけたかと思うと、ちょこんと足を払い相手を一瞬のうちに倒す、目にもとまぬ早業。相手の腕を畳んでもぐりこんでから豪快に投げる独特のバックフリップなど、理詰めのテクニックに裏打ちされた、その肉体同様、本当の強さを感じさせるレスラーだった。改めて、故人を追悼したい。

家では、「まさひろちゃん」(本名:斎藤昌典)と呼ばれていたマサさん。


 東京都中野区出身。実は大変裕福な家庭に生まれ育ち、学校は私立のカトリック系。中学の時は、週3回の家庭教師がつくほどだったが(母親が教育ママだったのだ)、勉強が嫌いで、次第にアマレスに専心。1964年の東京五輪代表に選ばれ、無冠に終わると、メキシコ五輪を狙えという周囲の声に耳を貸さず、翌年、あっさりとプロレス入り。ところが、こちらも見限ると、1968年4月10日、コスチューム代わりに、明治大学柔道部から支給された柔道着と、当時の渡航上限額の200ドルを手に、単身アメリカへ。その時期の日本のプロレス界には、アマレス派閥がほとんどなく、基本は、相撲出身のレスラーが重用されていたことへの反発だったとされる。この頃の振り返りの時点で、斎藤はよく、こう繰り返す。

「なにしろ俺は、自由に生きたかったんだ」

 時の全米のプロレスは、ギミックでない、実力ある日本人レスラーを探していた。自動的にヒールとなり、強ければ強いほど、客のヒートを買い、客も入るわけだ。言うに及ばず、斎藤はそれに合致していた。おまけに、アマレス時代から、あだ名が『マフィア』。初めての海外の試合で、相手を場外まで投げてしまった時、先方のコーチが、そう言って激怒したからだというが、マサ自身が言うには、「鏡を見たら、なるほど、俺も確かにマフィアみたいな顔してるわけよ(笑)」。斎藤が海外で、それこそ自由な、一匹狼のレスラーとしてのし上がって行くのに、時間はかからなかった。

「もし会場の駐車場に車を泊めようものなら、帰る頃にはスクラップにされてたぜ」

 そんな風にも語る。トップヒールに対し、ヒートしたファンは、何をするかわからない。彼がアメリカで活躍した70~80年代当時は、レスラーにピストルやナイフを向ける客も少なくない時代。女性だと思って安心すれば、鋭い爪で引っかかれることも。故に斎藤は、その海外生活において、常に会場から離れたパーキング・エリアを確保していた。

 だが、ことリング上においては、アメリカでのリング・ネームである“ミスター・サイトー”の名は、常に中心に置かれる存在だった。米・ミネアポリスやシカゴのバーに、その名を冠した『ミスター・サイトー』なる“強い”カクテルが今でも残っているという事実からも、彼がいかにアメリカのマットで活躍していたかがわかるだろう。技術にパワーは勿論、肝っ玉も“凄玉”そのもの。余興で行われるシュート・ファイトで、レスラーに挑戦して来た空手家の目をくり抜いてしまったことも。

「目を指を突っ込んでひいただけだから、どうなったかは知らない。だが、もし、俺が負けたらどうなる?翌日から『空手家に負けた奴』として、リングに上がれなくなるんだぜ!」

 自由でい続けることの責務と厳しさ。生涯、3度の結婚をしたが、1993年には、こんなインタビューを残している。

「オレは若いときから、子供はつくらないと決めていた。オレの人生に子供は必要ないんだ、(中略)子供がいたら、受け身になるんだよ。(中略)そうなったら、男は守りの人生に入るんだよ。オレは攻めて、攻めて、攻め抜いて人生をまっとうしたいのさ。足手まとい?そうかもしれないな。オレは自由が好きで好きでたまらないんだ」(『アサヒ芸能』1993年12月9日号)……。

純白のリングが用意された、“あの試合”。


 日本においての活躍は、1987年の、猪木との一連の抗争に止めを刺すのではないか。3月に猪木の25周年興行で一騎打ち。4月の一騎打ちは、長州が新日本に復帰する呼び水に。6月の一戦は、終了直後に長州が乱入し、“新旧世代闘争”が始まるきっかけとなった。そして10月には、あの“巌流島決戦”……。

 4度のシングルで、全て新たな局面を出しており、今、考えても、この年のプロレス大賞の個人賞を斎藤が獲らなかったのは(それだけが評価の指標でないとはいえ)、残念な気がする。

 監獄固めの使い手や、アントニオ猪木との手錠マッチでも沸かせたが(1987年4月27日・両国国技館)、ファンならご存知だろう、もちろんこれらは、彼が実際アメリカで監獄に収容されていた時期があることからのギミックだ。「せっかく刑務所に入ったのだから、これを利用しない手はない」と考えたのだという。「俺たちは、客と戦ってるんだ。プロとして、客の目を引くことを意識するのは当然のこと」と斎藤は語る。アメリカでレスリングベア(熊)と戦ったこともある。それも2度以上。1回目はリング上でオシッコをされて大変で、2戦目は口を閉じさせていた紐が外れ、お尻を嚙まれたという。

 そんな“プロ”レスラー、斎藤が、しかし、客の1人もいない中で、試合をしたことがあった。繰り返すが、それが、1987年10月4日、巌流島で行われた、アントニオ猪木とのノーピープル・マッチだった。

 その試合当日、マスコミは朝7時半に、当の巌流島についた。“試合は、日の出とともに開始”という一部報道もあったためだ。ところが、待てども待てども、猪木も斎藤も現れない。実は、基本的にルールなしどころか、正式な試合開始時間も決まってなかったのだ。ましてや、リングがあるのは、宮本武蔵と佐々木小次郎の伝説の一戦の地。猪木も斎藤も、自ら先に着いて、佐々木小次郎化する気があるはずもない。

 昼の2時を過ぎても、斎藤はマスコミなどお構いもなしに、ホテルのベットで熟睡していた……。

 斎藤が島への唯一の交通手段である小船で現れたのが午後3時59分。猪木はその1時間半前の14時31分に、既に島に着いていた。斎藤の“武蔵としての登場”に、マスコミは色めきたつが、斎藤自身は気にならない。もちろん観客は1人も入れてないから、集中力も途切れない。しかし、いざ戦うリングが目に入ると、塩で清められたそのリングが、通常のそれとは違っていることに斎藤は、気付いた。団体名である『新日本プロレス』も、放映番組である、『ワールドプロレスリング』の文字も、ましてや各種広告も入ってない、ただただ純白のキャンパス、そして、コーナーポストだったのだ。

2日前に離婚した猪木も、遺書を書いて臨んだ巌流島決戦。


「チャレンジャー。オールジャパン、ジャンボ鶴田!」

 そんなコールを控え室で聞くことがあった。80年代前半、自分が主戦場にしていたアメリカはAWAのマットで、全日本からやって来たジャンボ鶴田が、団体のトップ王座である『AWA世界ヘビー級王座』に頻繁に挑戦していた時だ。斎藤の表情は苦かった。自分には、滅多に挑戦権など回ってはこないという現実があった。もちろん鶴田の実力は認めている。だが、アメリカでの実績なら、自分の方が、それこそ月とスッポンほどに上だった。何よりこのAWAのマットを、体を張って盛り上げて来たという自負がある。なのに何故……。

「結局、全日本という、強大なオフィスに所属している者との差だったんだよね」と、斎藤は当時を振り返る。

“フリー”“自由”“一匹狼”と言えば、聞こえはいいし、カッコいい。だが“自らの後ろ盾が何も無い寂しさ”を斎藤が感じるのは、そんな時だった……。

「決着は、どちらかかがどちらかをKOし、リング横のゲートをくぐった瞬間」。そして、この巌流島決戦では、もう一つ、ルールが併記された。「互いのプライドのみをルールとする」

 試合開始は午後4時半と告げられ、ストップウォッチがスタート。だが、猪木も斎藤も、全くそれを気にしておらず、実際2人が組み合ったのは、開始37分してからだ。ほどなくして斎藤は、リングの異変に気付く。硬い。リング下のスプリングが抜かれているのだった。今日ばかりは客を気にする必要はないから、派手な技も要らないという気遣いでもあったろう。事実、リングは周り半径50mをロープで囲まれ、その中には、立会人も報道陣も入れぬことになっていた。斎藤と猪木、2人がだけが戦える聖域と化したのだ。この試合の模様を映像で視た方なら、カメラがロングショットとそのズームインショットだけであったことを思い出せるはずである。
 余りにも基本に忠実に、それでいてシビアに攻める2人。斎藤の絞めで猪木が泡をふけば、斎藤は猪木の蹴りで肩甲骨を折る。いつの間にか猪木もアバラを折っていた。戦場が場外、つまり芝生の上に移り、そこで斎藤のスリーパーホールドだ。それを外し、猪木がリングに戻る。試合開始から1時間28分後の17時58分、陽が落ちたため、リングの周囲4カ所に設置された“かがり火”に火がくべられる。そうだ、この試合は客に見せるためのものではないから、大仰な照明は必要ないのだ。互いは、ただただ戦いに没頭。念のための30分ごとの時間のコールも、もはや耳に入らなくなっていた。猪木のバックドロップが繰り出される。1時間半以上してようやくこの試合初めての大技だ。続けて猪木は頭突き7連発。斎藤の気が一瞬遠くなったかと思うと……猪木の姿がないではないか。だが、自分もまだKOされてはいないはずだ。「まだだ!猪木!」と腹の底から叫ぶと、戻って来る影がある。すかさず横に滑り込み、バックドロップを見舞った。倒したと思って自らが立ち上げると、後頭部ごと刈り取られるような痛みが。猪木の延髄斬りだ。しぶとい。しかし、斎藤は猪木の頭をまさぐりあてると、強烈な頭突き3連発。暗いからもう何もわからない。だが、試合開始コールから2時間。確かに手応えはあった。斎藤は、ヨロヨロと、決着をつけるゲートにむかった。

 そこで斎藤の意識は、途切れた。

 気がつくと斎藤は、巌流島から帰る小船の上で、担架に乗せられていた。最後の最後で、背後から追って来た猪木のスリーパーホールドで落とされたのだ。試合タイムは、日本のプロレス史上最長の、2時間5分14秒。

 一匹狼の猛者が「生涯のベストマッチ」と語る試合は、何の装飾も団体の利害関係もなく、互いの肉体だけを後ろ盾にした、男と男の死闘。それは、自由を何よりも好んだ斎藤が、心から自由に闘えた試合ではなかったか。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

コメント

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  • プロレスのプロはプロモーションのプロが語源だそうです。
    マサさんはあらゆるプロモーションを渡り歩き、プロフェッショナルなレスリングで世界中のファンと戦ってきました。
    そして最期には病魔と戦っていたのです。
    負けたとは思いません。

    ご冥福をお祈りいたします。

    ID:7756279 [通報]
    (2018/7/20 20:56)
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  • 数年前の吉田豪か誰かのインタビューでは、自分はファンに好かれてないと思ってたみたいなこと言ってたけど、自由に生きた代償だと割り切ってたんだろうか?
    こういう生き方を全うできる人間ってほとんどいないだろうけど、やっぱり憧れるなあ
    「ミスター・サイトー」呑めば、少しはそういう生き様も味わえるかな

    ID:6900541 [通報]
    (2018/7/20 23:33)
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  • 本当に"強いヤツ"はフリーに多い。

    ID:7519711 [通報]
    (2018/7/21 7:21)
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