2018/3/3 12:38

ダイナマイト・キッドも注目!パートナーにした天龍の真意!引退発表、北原光騎特集!

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ダイナマイト・キッドも注目!パートナーにした天龍の真意!引退発表、北原光騎特集!
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レスラー・デビュー30周年の本年、6月に引退


 昔の新聞や雑誌を読むと、おっと思うことがある。今では有名レスラーになった選手の、アマチュア時代の戦績に出くわすことがあるからだ。「(アマレス)115キロ級の峰山(高校)・中邑真輔君は(中略)近畿大会で個人優勝し、入賞の期待が集まる」(朝日新聞大阪版・1997年7月29日付)、「(三重)県レスリング選手権大会兼国体予選(中略)F(フリー)74キロ 後藤洋央紀(桑名工)」(朝日新聞名古屋地方版1997年7月23日付)etc。さて、「格闘技通信」(週刊ベースボールマガジン社)にも、1986年、こんな記載があった。

「シューティング(一般の部)・優勝・北原辰巳(会社員)」

 本名・北原辰巳こと、北原光騎の、6月での引退が発表された。近年は格闘技『地下室マッチ』の主宰で知られた同氏だが、特に90年代を知るファンには、「プロレスラー・北原光騎」の印象が強いはずだ。今回の当欄は、だからこそ彼のプロレス人生を、あるレスラーの逸話とともに振り返りたい。

1988年4月、百田光雄戦でデビュー


 のっけから言うが、大多数のプロレスファンがテレビでその名を知ったのは、やはり北原が、天龍源一郎率いる団体、WARの戦力として、新日本プロレスに初めて乗り込んだ時だろう。1992年の11月23日、天龍、石川孝志と組み、反選手会同盟(後の平成維震軍)の越中、木村健悟、青柳政司と対戦。前述のようにシューティングの心得があるだけに、ブリッジも軽々こなす北原は、試合途中で奇麗なジャーマンスープレックスを披露。その時のテレビ解説、山本小鉄の言葉が忘れられない。「北原選手は、さっきコーナーで自分の膝をいじっていたんですね。戦っているうちに、自分の膝が抜けてしまって、自力でそれを治そうとしてたんですね」膝蓋骨脱臼という症状で、北原にとっては持病のようなものだった。

「その膝であえてジャーマンをやるってのは、そこのところ、なかなか根性ありますね」(山本小鉄)

 実際、負けず嫌いとして有名だった北原。青年時代は喧嘩にあけくれ、20歳で佐山聡を始祖とするシューティングに入門すると、佐山が道場にいる際、狂ったようにサンドバッグに蹴りを叩き込む。すると、佐山から目をかけられ、そのままインストラクターに。

 プロレス入りは、シューティング門下生のつてで、谷津嘉章を紹介されたことだった。1987年に、その谷津がいたジャパンプロレスへ入団。そこから全日本プロレス入りし、1990年には、SWSへ移籍。頭角を現したのは、やはりその蹴りの技術からだった。全日本時代、北原はあの、ダイナマイト・キッドに話しかけられる。「お前、ひょっとしてサヤマに学んだのか?」キッドもその蹴りを見て悟ったのだった。因みに、全日本時代の修行先のカルガリー時代には、同じく修行中だった佐々木健介とタッグ「サムライウォーリアーズ」を結成。北米タッグ王座も獲得している。

 SWSでは、仲野信市とのタッグ、『挑龍軍』が注目される。文字通り、天龍に挑戦するためのユニットだった。初対決となった1992年1月12日、蹴り1発で、天龍を昏倒させた。あの受けが強い天龍をである。シューティング仕込みの北原の蹴りは、いわば急所を狙うもの。プロレスにある蹴りのように、互いの鍛え合った部分を攻め合い、そして受け合うそれとは、根本的に違っていた。実は北尾光司のセコンドとして1996年5月の「UFC9」にも参加している北原。現地に到着すると、カードに空きが出ていたためエントリーすると認められ、ゲーリー・グッドリッジとの対戦が内定したことも(当時所属していたWARの意向により結局中止に)。それほどこちらの方の腕には自信があったのだ。

 だが、この格闘技がしみついた動きが、プロレスにとって有用だったかはわからない。北原自身から、その相克もあったことを伝え聞いている。1990年、全日本プロレスを辞める際の理由も、どこかそんな純な格闘技者としてのスタンスが出たものだった。当時、ジャンボ鶴田については、「オー!」という声援が、谷津嘉章については出す技出す技に「オリャッ!」という掛け声を出すのが、一種の流行となっていた。それに乗じて、全日本側もパンフレットの表紙を、2人の似顔絵から「オー!」「オリャッ!」の吹き出しがついたものに。これに若き北原が激怒した。「あまりにもレスラーを馬鹿にしてませんか?ファンは何を言ってもいいと思う。でも、それを、会社が助長するのは違うと思いませんか?」……。生一本な、北原らしい意見だった。

 そして、その後の北原のプロレスへの道筋をつけたのは、まさに北原の鋭角的な蹴り1発で倒され、こんな言葉を残した男だった。「久しぶりに、この野郎と思わせてくれたな」。天龍源一郎だった。

冬木、北原vs越中、木村健悟(1992年9月15日)で、vs新日本の渦の中へ


 そもそも、入団時にほぼ実体のなかったジャパンプロレスから、北原を全日本に引っ張ったのが天龍だった。「俺の付け人をやれ」天龍らしい、無骨な救いだったのではという北原の述懐がある。プロレスになじめぬ部分のあった北原をおもんばかってか、「関節技、教えてくれよ」と言う時もあったという。

 その天龍について行く形でSWS入団。そして、数々の私怨や謀略が渦巻いての同団体崩壊後は、まさにその天龍自身が船出させた団体、WARへ参じる。1992年7月の旗揚げ後、WARは2ヶ月後には、早くも新日本プロレス(反選手会同盟)との対抗戦に打って出る。第1ラウンド(9月15日)は、冬木弘道、北原光騎、折原昌夫を立てたが全敗。第2ラウンド(10月21日)は天龍自らが北原、折原を従え、越中、木村、青柳と6人タッグで対戦したが惜敗。続く第3ラウンド(10月23日)、天龍はやはり、北原をパートナーにし、そして折原にはシングルで反選手会(齋藤彰俊)と戦わせた。天龍の言葉が残っている。

「パートナーや人員を変更して、(WAR勢でベテランの)カブキやキング・ハクを出せば、あいつらと決着をつけるなんてたやすい。だけど、そしたら、奴らに負けた北原や折原の気持ちはどうなる?俺はあいつらとだったら、心中したって構わないんだ」

 それは、自分について来てくれた若き選手たちへの、天龍のせめてもの気持ちだった。

 対抗戦第3ラウンドのトリの試合(天龍、北原vs越中、木村)は勝利。そして、その後も当然のように天龍の傍らで戦い続けた北原。WAR崩壊後は、全日本プロレスで合流し、ここでも天龍ともに戦った。2015年11月15日の天龍の引退試合にも出場し、花を添えた。

 天龍がWARに北原を誘う際、かけた言葉があるという。

「いいじゃないか。俺たちはやれるところまでやって、終わった時、その場で『万歳!』ってやればいいんだ」

 天龍は、2015年2月に引退を表明。それを聞いた北原はこんな風に語った。

「これでようやく、俺も引退出来るね」

 万感の笑顔だった。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

コメント

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  • 確か川田は北原から蹴りを学んだんでしたっけ?
    本物の技術をプロレスに落とし込んだという意味で功労者だと思います。

    ID:6587684 [通報]
    (2018/3/3 14:06)
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  • 昔は良かったと言うつもりはないが、昔は今より格闘技、競技出身者が多く、多様性があったなと。

    ID:2107967 [通報]
    (2018/3/4 6:49)
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  • 北原がブレイクできなかった理由は何だろう?

    ID:2107967 [通報]
    (2018/3/4 6:53)
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  • 北原はWARと新日の対抗戦でものすごいブーイングもらってた。
    でもこれってレスラーにとってすごくいいことでしょ。
    一番致命的なのは空気になること。
    空気はなくてはならないってのはこじつけで、声援でもブーイングでももらえるっていうのは存在感があったっていうこと。

    ID:5154231 [通報]
    (2018/3/8 22:19)
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