2017/8/26 12:07

19年前の来日秘話! えっ? 木村健悟の力を絶賛? 追悼・ドン中矢ニールセン特集!

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猪木、高田、藤原、天龍、山本小鉄とともに、貴賓席に座ったニールセン。


 言われてみなければ気付かない有名人というのは、確かにいるし、他人の行動で初めて、それを感知出来る場合もあるだろう。1998年の7月20日も、そんな日だった。横浜アリーナで、当時のプロレス記者のS氏が、紺色のアロハシャツを着た誰かと写真を撮っていた。それも、やや上気した体で。(誰だろう?)と周囲の人々は思ったに違いない。もしプロレスラーであれば、余りにも線が細いし、それに、彼が来日するのは5年ぶりのこと。わからなかった人が多くても仕方がなかった。誰かが呟いた。「ひょっとして、ニールセンじゃない?」

 ドン中矢ニールセン。1986年10月9日、前田日明と戦った異種格闘技戦が歴史に残る死闘となり、前田を“新格闘王”と認知させた強敵でもある。横浜アリーナの入り口の大会看板にはこう見えた。

「前田日明 リングス・ラストマッチ」

 前田の歴史の終焉にあたり、当時、自分が働いていたタイのバンコクから、わざわざ来日したのだった。

 そんな好漢、ニールセンが、8月15日、逝った。最近発売された、筆者が携わったムックにもその(実質的に)最後のインタビューが掲載されているが、今回の当欄では、特に前田vsニールセンの真実を中心に、故人を偲びたい。

最後の来日は、昨年、親族のいる愛媛に。


 ニールセンは、1960年、アメリカ出身。「中矢」とあるのは、母方の祖母が愛媛県人であったため。(よって日本語も片言でたしなんでいたという。) 9歳から、有名俳優チャック・ノリスが主宰する道場で韓国空手を習い始め、その後、日本でも漫画「四角いジャングル」で取り上げられ話題となった、ベニー・ユキーデの設立したジム「ジェット・センター」所属に。(前田戦の後だが、同ジムに練習に来た木村健吾とも仲良くなったとか。特にそのカラオケの上手さに驚嘆したそう。)

 20歳でプロデビューも、ギャラは少なく、バーテンダーをして、糊口をしのいだことも。当時のニックネームが、「雷手」(KAMINARI-TE)だったのは良いとして(濃い眉毛が、雷神を想像させたか。)、前田戦の時の肩書は、「WKAのUSクルーザー級王者」。ところが、この王座、ベルトも無ければ、その後の防衛戦記録もなく。貰ったのは認定書だけだったという。こんな、ニールセンの述懐が残っている。「キックボクシングの王座は、管理が杜撰なんだ。せいぜい2~300人のところで試合をやることも多いわけだからね」……。

 それだけに、前田戦の印象はニールセンにとって、一種、感動的なものとして残った。なにせ、両国国技館で、1万1520人(札止め)の観客を前に戦ったのだ。その後のニールセンは周知の通り、山田恵一(後の有名マスクマン)、藤原喜明、佐竹雅昭、ウェイン・シャムロックなどと日本で対戦。まさに前田戦は、ニールセン自身にとっても、強力なジャンピング・ボードとなったのだった。

 ところが2005年になって、この一戦が、やや歪んだ形で取り上げられることになる。きっかけは総合格闘技のリングで戦い、連敗を喫したあるプロレスラーが、その戦績を前田日明に批判されたことがきっかけだった。前田に反論して、曰く、「俺が総合格闘技のリングでやった試合と、(プロレスのリングで行われた)前田vsニールセンは、そもそものジャンルが違うだろ! 胸に手を当てて、よく考えてみろ」……。当時、筆者は、まさか現役のエース格の選手がこんなことを言うとは思わなかったのだが、では、前田vsニールセンの真実は、いったいどこにあるのだろうか?

第一次UWF時代のビデオを提供され、前田を研究したニールセン


「異種格闘技戦」として行われた前田vsニールセン。実はこの試合は、時の東京スポーツによれば、前田の異種格闘技戦シリーズ第1弾として行われるものだった(第2弾は同年12月、第3弾は翌年5月)。ところが、試合が正式決定したのは、決戦3週間前の9月18日。しかし、その3ヶ月前からニールセンは、新日本から提供されたビデオを見て、研究していた。対して、前田側に提供されたのは、ニールセンのプロフィール写真と、戦績の書かれた紙一枚のみ。動画は格闘技の専門誌のツテを頼って手に入れた。「新日本側が、ニールセンを使って、自分を潰しに来るのではないか」という不安。この誤解を解くために、藤波がUWF道場まで前田を訪ね、「いい経験だと思って、やって欲しい」と説得する場面もあったという。知られざる逸話だが、決戦直前には、3分10R(ラウンド)の試合の予定が、2分10Rに変更されそうになったことも。ラウンドの分数が短ければ、たとえ関節技に入られても、ニールセンが逃げ切る可能性は高くなる。これはUWFサイドが猛反対して回避された。

 前田の不安が払しょくされたのは、決戦3日前の10月6日、テレビ朝日内で行われた互いの公開練習が終わった直後だった。ニールセンの練習を見て、前田がこう語ったのである。「蹴りは大したことない。パンチも大振りだから入りやすい」表情も和やかになっていた。「まぁ、怖いのは左のストレートくらいだね」(前田)

 そして迎えた試合。前田は1Rの出だしにいきなりニールセンの左ストレートを食らい、以降、記憶がとんだ。ニールセンは、時に黒い蝶々にしか見えず、クルクルと回って、その触手をロープに伸ばし、前田は捕らえ切れない。国技館での試合中なのに、なぜか花畑まで見えて来た前田。危ない、尻餅をついてしまった、と思えば、ラウンド合間のインターバルの椅子の上だった。

 試合は、互いの命をすり減らすような激しい攻防の末、前田が逆片エビ固めで勝利。その3日後、水割りを飲み激しく嘔吐した前田は入院する。検査結果は、脳が腫れる、厚膜脳庖。前田の異種格闘技戦シリーズは、この1回だけで中止になった。それほどの危険を、前田は負ったのだった。にもかかわらず、試合が終わった直後の前田は、こうマイクで観客に呼びかけた。

「彼にも大きな拍手を! 」

 讃えられたニールセンも、マイクを持ち、片言の日本語で、こう答えた。

「日本二来ラレテ、光栄二思イマス」……

リングス引退試合後も、前田との交友は続いたニールセン


 S記者がニールセンの隣を離れると、一気に周りにひとだかりが出来た。20代、30代、40代の記者たちが、一様にせがんで、ニールセンと写真を撮りたがった、握手をしたがった、サインを欲しがった。皆の目が、子供のように輝いている。口々に言う。「前田さんとの試合、感動しました!」「僕の思い出の試合なんです!」「まさか会えるなんて……本当に嬉しい」「今日は、夢みたいです……」

 プロレスと総合格闘技を並べる時、そこには様々な毀誉褒貶が生ずる。だが、前田vsニールセンを思う時、結局、この光景が一つの真実を物語っていると、筆者は信じて疑わないのである。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

コメント

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  • この試合生観戦したがメインの猪木スピンクス戦がしょっぱすぎてその反動も
    あって前田が猪木のお株を一気に奪ったという印象はある。実際面白い試合だった。
    前田はいざとなった時の勝負度胸はピカイチだったかもしれないが、それと競技に踏み出したかどうかは別次元。
    永田選手の指摘は反論として全く正しい。
    前田が疑心暗鬼になっていたから不穏試合になる可能性があったという、それだけの話。

    ニールセン戦はエキサイティングで記憶に残る作品だった。
    それでいいではないか。




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    (2017/8/27 0:49)
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