2017/5/13 14:47

一番キツかった復帰は? マスコミへの、唯一の注文とは!? 7度目決定!大仁田厚、その引退の歴史特集

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一番キツかった復帰は? マスコミへの、唯一の注文とは!? 7度目決定!大仁田厚、その引退の歴史特集
4.8

本年10月31日、後楽園ホールで引退発表!


大仁田厚の居住する場所の一つに、都内のGなる町がある。大仁田の母が経営する店の2階に大仁田の部屋があるのだが、そこに、Nスポーツの記者と突撃した時の話だ。大仁田が大変な“人たらし”(というより、記者たらし)であることは、以前もこのコラムで述べた気がするが、その時もとにかく、気さくで愛想が良かった。Nスポーツの記者が聞く。

「大仁田さん、●●についてお話を伺いたいんですが……」

「ああ、それについては、そっちで適当に書いておいてよ(笑)」

Nスポーツの記者との信頼関係もあるとはいえ、(えぇっ!?)と筆者は思ったのだが、大仁田は笑顔で続ける。

「悪口でもいいよ。ただし……」

後述するが、その次に続く言葉は、この大仁田という人物が、なぜ、ここまでの有名レスラーになれたのかを、語ってあまりあるものだった。

先ごろ、7度目の引退を発表した大仁田。(そういえば去年話を聞いた時、還暦に引退するって言ってたなあ……)と筆者も思い出しつつ、今回の引退を信じる読者も、まあ、あまりいないとは思う。そもそも、過去6度の引退(及び復帰)について、詳しくない読者の方が多いのでは?

というわけで、今回はそんな大仁田の引退と復帰の歴史に、光を当ててみたい。

本年10月25日に、還暦を迎える大仁田


大仁田の最初の引退は、デビューした全日本プロレスで。右ヒザの不調により、84年12月のマイティ井上との対戦に敗れ、引退を決意。控室で泣きじゃくる大仁田を抱きしめ一緒に悲しんでいたのが、9年後に電流爆破マッチで一騎打ちするテリー・ファンクだった(こちらも引退経験あり)。85年1月の引退セレモニーでは、リングから去る大仁田に、馬場がロープを開けてエスコート。人なつっこい大仁田を息子のように可愛がり、一時は、「養子にする」という考えがあったのは有名な話だ。後年、話を聞いた和田京平レフェリーは、「大仁田はおべっかが上手かったから」と言っていたが……。

通信システムコンサルタント「電電オービック株式会社」(東京都武蔵野市)の代表として第2の人生をスタートさせた大仁田だが、すぐに左前に。最初の復帰は88年12月のグラン浜田戦。こちらが当時のジャパン女子プロレスで行われ、大変な物議を醸した。隔世の感があるが、当時は、男女が同じリングで試合をやるなど考えられなかったのだ。集客や方向性に伸び悩んでいたジャパン女子のテコ入れとして、団体の顧問だった新間寿氏が画策したものだが、女子はマイクで涙の抗議をするわ、新間氏には罵声が。順番的にメインとなる大仁田の試合の際には、ジャパン女子選手は帰宅、もしくは控室にこもってしまった。実はこの時の復帰が、大仁田にとって一番印象深いものだったという。「歓迎されてない感、ありありだった」(大仁田)。後に旗揚げするFMWは、男女混合団体に。過去を、苦い経験として反省するのではなく、別角度から活かすところは、いかにも大仁田らしい才気ぶりだった。

長崎県知事選は、3位で落選の大仁田(2010年)


一番有名な2度目の引退は95年5月のハヤブサ戦。川崎球場に5万8250人を集め、それでも溢れた観客が、球場外に設置されたビジョンで楽しんでいたのを思い出す。96年12月の3度目の復帰は、永遠のライバル、ミスター・ポーゴの引退試合のパートナーとして呼び出される形で実現。多くの反対があったが、実際の試合がパワフルそのもので、観てしまうと何も言い返せない迫力があった。

3度目の引退試合は、通っていた明治大学の卒業式の夜。「プロレスからも卒業」とする剛腕さながらの企画力は大仁田ならでは。大仁田入場時のお馴染みのテーマソング「ワイルドシング」の前に、明治大学の応援団による校歌斉唱があったのが印象深い。いやがおうにも、ドラマティックだった。なお、この時、対戦した越中(大仁田、矢口壱狼vs天龍、越中)が、「どうせまたすぐ戻って来るんだろうけど」と試合前にコメント。当たったわけだが、事実、この引退の翌日、早くも大仁田が前田日明にタッグ結成を呼び掛けている。

3度目の復帰は4度目の引退と同時。06年4月1日の「靖国神社・奉納プロレス」に特別参戦。「エイプリル・フールだから」と面白おかしく書いたマスコミもあったが、旧知のZERO1からのオファーで、あくまでゲスト出演。マスコミには鷹揚とした大仁田自身も、「あんまりそう書いてほしくない」と言っていたが、これを復帰に数えるのは酷だろう。因みにこの試合で大仁田はトレードマークの革ジャンを客らしき人物に盗まれている。神社でのプロレスにも関わらず、盗む方も盗む方だが、戻っては来なかった。

4度目の復帰は、07年2月11日に新宿歌舞伎町のキャバレー「クラブハイツ」で行われた「喧嘩プロレス~新宿歌舞伎町路地裏喧嘩試合~」に、二瓶一将の懇願により参戦したもの。5度目の引退は、09年12月27日、翌年の長崎県知事選挙への立候補表明とともに。翌日の弟分、ターザン後藤とタッグマッチを引退試合にした。

5度目の復帰は、マスコミでは、「10年2月21日」となっているが、これが件の長崎県知事選挙の落選日となっているから興味深い。実は大仁田が、前年の5度目の引退表明の際、「長崎県知事選挙に、当選したら」の「if」をつけていたのだ。このあたりが非常にややこしく、当選していないのだから、“5度目の引退はないのでは?”とする説もある。さらには、県知事落選の4か月後の10年5月5日に、大仁田がケジメをつけるため、改めて「引退試合」を敢行。つまり、意義的には、5度目の引退試合が、2試合あるということになる。もちろんこれを6度目の引退試合にカウントする媒体もあるし、大仁田自身、この試合後、「また戻って来る時は、宜しくな!」と言っているから緩いことこの上ない。昨年、筆者がインタビューした際も、「もう、引退したのが5回なのか6回なのか、俺もよくわからないんだよ」と言っていた。いずれにせよ、半年後の10年11月22日に6度目の復帰。そして来る本年10月31日に、7度目の引退予定となっている。

「悪口でもいいよ。ただし」

冒頭のやり取りの後、大仁田は言った。

「記事はデカくな。とにかく、扱いさえデカくしてくれれば、俺、なんとも思わないからさ」

清濁を問わないプロとしての徹しぶりに、一種の感銘を受けた。これもまた、最前線に立つ男の、器のデカさと言っていいだろう。そして、(前、同じようなこと言ってた人がいたな、誰だっけ?)と思い、すぐ、思い起こせた。アントニオ猪木であった。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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