2016/3/5 10:31

初代世界タッグ王者・五輪コンビの時代~ジャンボ鶴田と谷津嘉章 レスリングモンスター達が手を組んだ3年間~【ぼくらのプロレス物語】

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初代世界タッグ王者・五輪コンビの時代~ジャンボ鶴田と谷津嘉章 レスリングモンスター達が手を組んだ3年間~【ぼくらのプロレス物語】
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全日本プロレスの至宝・世界タッグ王座。

元々は1966年に日本プロレスで設立されたインターナショナル・タッグ王座と1984年に全日本プロレスで設立されたPWF世界タッグ王座が統一されたタイトルである。

これまで幾多の名タッグチームがこのタイトルに名を刻んできた世界タッグの初代王者となったのがジャンボ鶴田と谷津嘉章の五輪コンビだった。

1988年6月10日に当時PWF世界タッグ王者だった五輪コンビが、当時インタータッグ王者のロード・ウォリアーズを破り、王座を統一。それが世界タッグ王座の歴史の始まりだった。

初代世界タッグ王者・五輪コンビはミュンヘン五輪レスリング日本代表の鶴田とモントリオール五輪レスリング日本代表の谷津と言う日本のレスリングモンスターたちがタッグを結成したことがコンビ名の由来となった。

1984年、新日本プロレスを退団した長州力率いる維新軍が「ジャパン・プロレス」を設立し、全日本プロレスと業務提携をすることになる。谷津は維新軍時代は若き侍として活躍していた。

1985年から全日本に本格参戦するようになったジャパン・プロレス軍。
大将の長州は谷津をパートナーにして、全日本最強コンビのジャンボ鶴田と天龍源一郎の鶴龍コンビとインタータッグ王座を賭けて幾度も対戦し、激闘を繰り広げてきた。

しかし、1987年3月に大将・長州力を含む一部のメンバーがジャパン・プロレスを離脱し、新日本プロレスにUターンしたことにより、副将・谷津がジャパン・プロレスの大将となり全日本で闘うことを決意する。

長州が去ったジャパン・プロレスの所属選手は谷津を含めてわずか5人。
1987年10月25日、ジャパン・プロレスは解散し、元ジャパンの5選手は全日本に移籍した。

その中で離合集散の末に誕生したのが鶴田と谷津の五輪コンビだった。
10月30日に初タッグを結成した五輪コンビはいきなりロード・ウォリアーズが保持していたインタータッグ王座に挑戦した。

「ジャンボ鶴田と谷津嘉章のオリンピック・コンビは、非常に夢のあるタッグチームだ。ともに元オリンピック・アマレス代表という肩書を持った"金の卵"であったのにもかかわらず、両選手はプロレス入り以来、まったくといっていいほど正反対の道を歩んできた。1972年のミュンヘン大会後、迷わずに全日本入りを決めた鶴田は、ひたすらエリートコースを突き進み、比較的に短期間でスターの座を手に入れることに成功した。いっぽう、谷津は1976年のモントリオール大会の4年後にようやくプロ転向を決意。新日本ー維新軍ージャパン・プロを転々とし、今回、正式に全日本参加を決めるまで何度となくプロレス界の政治的トラブルのなかに身を置いてきた。(中略)これまで鶴田には"温室育ち"なるレッテルが張られ、谷津には"雑草"といったイメージが定着していた。元オリンピック選手という事以外、ふたりの間にはほとんど共通点がなかったといっていい。ところがこの見解はひとつだけ重大なファクターを見落としていた。それは鶴田も谷津も根っからのスポーツマンだったということだ。アマの世界からプロの道に入ってきた両選手にとって、"因縁"、"抗争"、"遺恨"というフレーズはまったくナンセンスな単語なのかもしれない」
(DECADE 1985~1994 プロレスラー100人の証言集 上下巻/斎藤文彦 著・ベースボールマガジン社)

年末の世界最強タッグ決定リーグ戦にエントリーした五輪コンビはリーグ戦優勝を果たし、激動の1987年を締めた。

谷津は五輪コンビ結成後、田吾作タイツから黒のショートタイツに変えた。
これは馬場の意向が大きかったという。
五輪コンビにとってのライバルは天龍源一郎と阿修羅・原の龍原砲。
両チームの抗争は多くの名勝負を生んだ。

天龍のパートナーだった原が全日本を離脱すると、五輪コンビのライバルは新チームの天龍とスタン・ハンセンの龍艦砲となった。

龍原砲が相手でも、龍艦砲が相手でも五輪コンビはアスリートの風を届けてきた。
コンビの役割分担もしっかりしていた。
谷津が参謀役となり、最後は絶対的な必殺技バックドロップを持つ鶴田に繋いで勝利するというパターンが多かった。

谷津嘉章は五輪コンビについて後年、このように振り返っている。

「五輪コンビはやりやすかったよ。ジャンボは頼もしかったよ」
(Gスピリッツ vol.25/辰巳出版)

そんな五輪コンビは1990年の谷津の新団体SWS移籍によって解散することになった。
実は谷津は7月シリーズ開幕戦で超世代軍の三沢光晴と川田利明と対戦した。
そこで谷津は三沢と川田に徹底的に痛めつけられてしまう。
結果的には鶴田が川田を破り、五輪コンビが勝利したが内容的には押されていた。

三沢自身はこの対戦で「後輩に越されるのが堪らなくなったから谷津さんは全日本を辞めたのではないか」と推測している。

谷津を失った鶴田はその後、ザ・グレート・カブキ、田上明とパートナーを変えながら全日本プロレスの絶対エースに君臨し続けた。
その鬼神のごときその姿はまさしく完全無欠の男といった趣だった。

だが、鶴田は谷津と離れ離れになったとしても、背中に「OLYMPICS」と書かれ、五輪のマークが描かれた黒のジャンパーという入場コスチュームを変えることはなかった。一方の谷津はSWS移籍後は維新軍時代の田吾作タイツ姿に戻り、五輪コンビの影を漂わせなかった。

鶴田自身は谷津の全日本離脱後にあまり口にすることはなかったが、もしかしたら五輪コンビに誰よりも思い入れがあったのかもしれない…。

この記事を書いたライター: ジャスト日本

コメント

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  •  世界タッグの決定戦は反則裁定でした。なのに五輪コンビのアスリート性などを前面に出している記事なので、話の流れが噛み合っていません。ですので、全くしっくり来ません……。当時のことをよく知らないまま、色んな本の寄せ集めで適当なことを書くのは如何なものかと……。以前からジャスト日本さんの記事は、内容の薄さと肝心な部分の違和感が気になります……。厳しい意見で申し訳ありませんが、あまり気分のいいものではありません……。

    ID:3940045 [通報]
    (2017/8/15 13:06)
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