2016/2/29 7:25

1992年7月千葉、"不屈のプリンス"田上明 大将・鶴田欠場の中で三冠王座初挑戦【ぼくらのプロレス物語】

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1992年7月千葉、"不屈のプリンス"田上明 大将・鶴田欠場の中で三冠王座初挑戦【ぼくらのプロレス物語】
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田上明は全日本プロレスで四天王の一人に名を連ねた怪物である。
しかし、デビュー時の彼を知っている者からするとまさかトップレスラーになると予想した者は少なかったと思われる。

1987年に角界からプロレスに転向してきた田上。
同時期には角界から高木功(現・嵐)、ジョン・テンタといった将来が嘱望された人材が全日本に入団していた中で、当初、出世頭になると予測されていたのはプロレスに順応していた高木だった。

しかし、高木は1990年に全日本を退団し、流浪のプロレス人生を歩んだ。
一報の田上は四天王の一人となり、1996年にはチャンピオン・カーニバル、三冠ヘビー級王座、世界タッグ王座、世界最強タッグ決定リーグ戦を制し、史上初のグランドスラムを達成した。

そんな田上はチャンスをもらってもなかなか評価がされない時代があった。
1990年9月、エースジャンボ鶴田のパートナーに指名された田上だったが、不甲斐ない試合が続き、ブーイングをもらうのが彼の日常だった。

ライバルの川田利明にはこう言われた。

「相撲で勝負しても俺はあいつに負けないよ」

屈辱以外の何物ではない。

パートナーの鶴田には試合後に「今の試合はなんだ!」と制裁のビンタを浴びた。
それでもキャリアは短くても、踏まれても踏まれても、少しずつ成長していった田上は次第にファンからの評価を高め、「田上」コールが発生するようになった。

1992年6月5日、日本武道館のメインイベントに登場した田上は鶴田と保持していた世界タッグ王座の防衛戦の舞台で覚醒する。
相手は超世代軍の三沢光晴&小橋健太(現・建太)。
田上は1991年から得意技として使用していたゴールデン・アームボンバーを改良した新必殺技ネックハンギング式アームボンバー(後にノド輪落としと呼ばれるようになる)が大爆発させ、小橋を沈めた。
また、三沢相手にはバックドロップとノド輪落としのいわゆる「岩石ノド輪」という合体技まで披露した。

田上は武道館のメインを締めた。

だが、翌月の1992年7月に鶴田が病気で倒れ、シリーズを欠場することになった。
田上は人生で初めて、軍団の大将代理を務めることになった。
しかも、シリーズ最終戦にはスタン・ハンセンが保持する三冠ヘビー級王座に初挑戦することになっていた。

田上は鶴田軍﹅大将代理としてシリーズを闘い抜いた。
そしてシリーズ最終戦1992年7月31日の千葉・松戸市運動公園体育館。
田上はハンセンが保持する三冠王座に挑戦した。

スーパーヘビー級同士がぶつかる中で、田上にもハンセンにも負けられない理由があった。
田上はシリーズの主役として有終の美を飾り、プロレスラーとして独り立ちしたい。
そして、ハンセンの胸中にはある想いがあった。
試合はハンセンの貫録勝ち。

試合後の控室でハンセンは涙を浮かべながらある男の名前を出した。

ブルーザー・ブロディ。

ハンセンの盟友である伝説のプロレスラーは1988年7月にプエルトリコで非業の死を遂げた。ハンセンは「ブロディのためにも負けられなかった」と語った。

こうして田上の三冠初挑戦は終わった。
試合後、田上はこう語った。

「精神的にくたびれたよ…」

田上は三冠初挑戦から約4年後の1996年5月24日に三沢光晴を破り、三冠ヘビー級王座を戴冠している。


この記事を書いたライター: ジャスト日本

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