2016/2/23 21:23

1995年2月の天山広吉~海外遠征から凱旋、キャリア4年・23歳の若き猛牛が大物喰いの連続で時代を動かすトップスターになった衝撃~【ぼくらのプロレス物語】

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1995年2月の天山広吉~海外遠征から凱旋、キャリア4年・23歳の若き猛牛が大物喰いの連続で時代を動かすトップスターになった衝撃~【ぼくらのプロレス物語】
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山本広吉が天山広吉に改名して海外遠征から凱旋帰国してきたのが1995年1月4日の東京ドーム大会だった。

1993年3月にヤングライオン杯優勝を果たし、同年6月に海外遠征に旅立ってから一年半の月日は、"山牛"と呼ばれいじられキャラだった95kgの青年は肉体改造に成功し、120kgの逞しい猛牛となって凱旋して帰ってきた。
フライング・ニールキック、TTDと呼ばれる強烈な一撃はロープに振ってキャッチしてからのシットダウン式ツームストン・パイルドライバーという危険な技、120kgの肉体で舞うムーンサルト・プレスはヨーロッパのリングでマットを引いていない状態で練習した秘密兵器、ヤングライオン時代から多用しているモンゴリアン・チョップで会場を沸かせ、最後はロープに振ってからの水車落としとバックフリップを合わせたような投げ技で当時・新人だった中西に勝利した。
フィニッシュホールドとなった技はマウンテン・ボムと名付けられた。
数々のオリジナル・ムーブ・天山スペシャルを引っ提げての文句なしの凱旋だった。

新日本プロレスの歴史を振り返ってみても、天山ほど変貌して凱旋帰国してきた男はいない。

「今年は天山をトップに押し上げていくからな!」

当時の現場監督・長州力は1月末に開幕したシリーズでのミーティングでこう断言したと言われている。このシリーズでは2月4日の札幌大会で橋本真也が保持するIWGPヘビー級王座にいきなり初挑戦することとなった。
23歳9ヶ月での挑戦は当時の最年少挑戦記録だった。
1995年の新日本プロレスはキャリア4年・23歳の若者に託された。

1月末に開幕し、2月中旬に閉幕する新日本の新春シリーズ「FIGHTING SPIRIT」。天山の爆走が始まった。
開幕戦で橋本との前哨戦でパートナーの中西を圧倒し、存在感をアピール。
佐々木健介とのコンビは新たなるパワーコンビ誕生の予感をさせた。

金の卵である天山を獲得すべくリング外でも動きがあった。
新日本正規軍は天山を橋本、武藤、健介、馳が務めている看板レスラーの座を彼にも与え、本隊の地位を安泰させようと考えていた。
天山を将来の維震軍を背負わせるために、平成維震軍がスカウト活動のためにリング外で暗躍していた。
日本に帰国した天山を強引にワゴン車に乗せて拉致して、「維震軍に入れ!」と勧誘した。
また、1994年にヒール転向を果たした蝶野正洋も天山獲得に色気を見せた。
当時の蝶野はヒールとして方向性を模索していた時期だった。
蝶野は2月3日の天山とのタッグマッチでの対決後に、天山を認める発言をしていた。
実は天山もドイツを訪れた蝶野と面会をしていて、蝶野の「新日本の風通しをよくしたい」という発言に、心が揺れ動き、共感していたという。

2月4日の札幌中島体育センター。
この日のメインイベントは橋本真也vs天山広吉のIWGPヘビー級選手権試合。
橋本は序盤から中盤にかけて、天山を打撃、寝技、腹への一点攻撃で天山の心と肉体のスタミナを奪いにいく。

だが、天山は橋本の攻撃に屈しなかった。
カウンターのバックフリップから天山の反撃が始まった。
橋本の脳天から落としたパワーボムからのダイビング・ヘッドバット、ムーンサルト・プレスで橋本を追い込む。

天山はここで勝負に出る。
必殺技のマウンテン・ボムの体勢に入るが、橋本は堪え、かつて藤波辰爾からギブアップを奪った腹固め(リバース・ショルダーロックとも言われる)で切り返した。
天山は耐える、堪える。
そして、場内からは大「天山」コールが巻き起こった。
ファンの心を掴み、声援を力にして何とかロープに逃れた天山に追い打ちをかけるように橋本は必殺技の垂直落下式DDT(橋本が使う垂直落下式ブレーンバスター)でカウント3。
大善戦をした天山だったが、最後は王者の底力を見せつけられた。
それでも天山株は急上昇していった。

2月11日にはタッグマッチながら蝶野から勝利を収め、大物食いを果たした。

2月12日。
この日は後楽園ホールで昼夜興業が行われた。
昼は平成維震軍興業、夜は新日本プロレス興業だった。

天山を勧誘していた平成維震軍は興業数日前に天山にこう呼びかけた。

「2月12日の興業で返事を聞かせてほしい」

そして、リング上には越中のマイクが響く。

「天山いるなら出て来てくれ!俺達と一緒にやっていこう!どうだ!天山!」

私服姿でリングインした天山は握手すると見せかけてモンゴリアンチョップを見舞う。
天山には維震軍に入るつもりは最初からなかったのだ。

天山はマイクで叫ぶ。

「おい、"エッチュー(越中)"! コラ!文句があるんだったら、今来いよ!」

ここで割って入ったのが維震軍の番人・小原道由だった。

「越中さんが出るまでもない、俺が今ここでやってやる!」

小原にとっては天山は後輩。
かつて新日本の前座で何度も鎬を削ってきた仲である。
急きょ決定した天山VS小原。
実は小原はすでに高木功(現・嵐)に勝利していたため、この日は二試合目だった。
試合は天山が一方的に攻め続け、両足を下から抱えながらの変型サイドバスターで天山が圧勝。

そして、メインイベントの平成維震軍VS昭和維新軍の6人タッグマッチが終わると、突然天山が現れ、維震軍と維新軍を蹴散らしていく。
そうこうすると私服姿の蝶野が現れた。
もの凄い勢いで、維震軍と維新軍のレスラー達に殴りかかる。

「やっぱり、天山と蝶野は繋がっていた!」

控室に戻ると、天山と蝶野は互いに向かい合い握手する。

蝶野 「天山、これでいいのか!」
天山 「みんな、やってやる!ぶっ潰してやる!」

天山と蝶野の結託。
これに異を唱えたのは新日本正規軍だった。
夜の新日本興業で急きょ、6人タッグマッチが組まれた。
天山は蝶野とヒロ斎藤と組んで、長州力&橋本真也&平田淳嗣と対戦した。
試合は大いに荒れた。
長州と橋本は天山をボコボコにする。
長州のリキ・ラリアット、橋本の爆殺シューターには怒りが籠っていてより強烈な一撃となった。
だが、天山は新日本正規軍の集中攻撃を耐え抜き、長州に的を絞るとダイビング・ヘッドバットでカウント3。
23歳の若者がプロレス界を代表するスーパースターを破ったのだ。
歴史的事件が起こった。
そして、試合後天山は長州を思いっきり踏みつけてアピールしていた。
なんとも大胆不敵!

試合後も天山達と新日本正規軍の乱闘は続く。
怒りに打ち震えた橋本と平田は天山を後楽園の二階席にまで引きずり回して制裁を加える。
乱闘が10分近くも続く中で新たな男が現れた。

サブゥーだ。
1月4日の東京ドーム大会から蝶野と組んでいるアメリカ・インディーの帝王だ。
橋本にエアー・サブゥー(イスを踏み台にしての串刺しゼロ戦キック)や長州にはイスを絨毯にしてのギロチンドロップを見舞う。

そしてクライマックスが訪れる。
サブゥーが本部席の机を持ち込んだ。
本来はサブゥーがムーンサルトやダイビング・ギロチンドロップでのテーブルクラッシュをするのだが、この日は違った。
トップロープに登ったのは天山だった。
机の上に橋本を寝かせてのダイビング・セントーンを敢行。
机は真っ二つに割れた。
天山にとってはトップスターとなる大デモンストレーションとなった。
蝶野、天山、ヒロ、サブゥー。
こうして1995年2月12日、伝説のヒールユニット狼群団が誕生したのである。

新日本正規軍VS狼群団の新たな抗争が始まった。
ある試合では試合が終わったのにも関わらず、もう一度ゴングが鳴って再試合が行われ、イスや机がリング内外に飛びかい、天山の活躍にジェラシーを燃やすセコンドのヤングライオン達が天山と蝶野に襲い掛かる。レフェリーは毎回、選手の暴行を食らい収拾がつかない。

「新日本正規軍VS狼群団の試合があまりにもエスカレートし過ぎて、審判団としては責任を持って裁くことができない」

まるで職場放棄かと思わせる審判団による記者会見が行われるほどだ。

会場は危険さと緊張感に満ちていた。
全てが異常事態。
そしてどこか"一寸先はハプニング"新日本プロレスらしい。

2月17日の浜松大会では馳浩&佐々木健介VS蝶野&天山というタッグマッチが組まれた。いつの間にか蝶野&天山は"蝶天タッグ"と呼ばれていた。

馳と健介の馳健タッグは天山に集中砲火。
天山にとって馳健タッグは道場でプロレスを教えてくれた師匠だ。
だが、天山は耐え抜き、馳を机の上にパイルドライバーを決めてからのムーンサルト・プレスでカウント3。
天山は師匠の馳をも破って見せた。

2月19日の両国国技館大会では6人タッグマッチで天山はもうひとりの師匠である健介をムーンサルト・プレスで破って見せた。

長州、蝶野、馳、健介…。
日本プロレス界のトップレスラー達を次々と破り、大物喰いを果たした天山広吉。
実はトップスターに押し上げられ、孤独を味わっていた。

「つらいです…。ホンマにしんどくて堪らんのです」

天山はプロレス関係者にこう言って泣いていたという。

それでもリング上で天山は大物喰いをすることで、自らがトップスターの一人となっていった。

1995年2月に起こった天山の衝撃。
この衝撃の余りの強さに天山は苦しんだ時期もあった。

「あの海外から帰ってきた時は凄かったけど…」

こんな声と天山は長年、格闘し続けた。
だが、天山は猪突猛進に逃げずに立ち向かい、トップレスラーであり続けた。
IWGP王座を獲得したのはあれから8年後の2003年11月だった。
あの衝撃と闘い、一種の呪縛を乗り越えたから今日の天山がいる。

それが猛牛の生き様だった。

あれから21年後の2016年2月、幾多の困難を乗り越えてきたキャリア25年・44歳の天山広吉は今も第一線で活躍している。

天山広吉のレスラー人生はトップスターであり続ける苦しみと尊さを我々に教えてくれている…。

この記事を書いたライター: ジャスト日本

コメント

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  • 懐かしいですね~。あの頃の天山の勢いは半端やなかった。中邑に負けたあたりかな…ちょっと陰りだして大怪我もして…。けど、この前、第三世代が決起するような動きもあったし、また浮上してほしいです。あと、バラエティーに出た時の人の良さがなんとも言えず好きですね。

    ID:5984 [通報]
    (2016/2/24 12:03)
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  • 海外遠征から帰ってきたインパクトは正直オカダ以上でしたね。当時はアクの強いメンツばかりでそれこそカオスでした。
    その中で当時20代前半の天山は新日本に落とされた爆弾でした。
    狼群団好きだったな〜。特にヒロさんの乱入からのセントーン!

    ID:598752 [通報]
    (2016/2/24 12:14)
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